俳句集団【itak】第10回句会評
2013年11月9日
籬 朱子(銀化)
第10回の句会は37名の参加、74句を投句頂きました。今回は五十嵐代表の不在を受け、「第10回を終えて」を橋本喜夫、「句会評」を籬朱子にティルトします。ご高覧ください。
か げ
しかし、それよりも白く穢れないものが初雪だという。
初雪を最上級に讃える句になった。
三島と長い親交があり、彼の英訳を担当していたドナルド・キーン氏でもその死の知らせを受け取って「思いもよりませんでした・・。」と言うのだから。
しかし、ドナルド・キーン氏はその全集で「彼の死は、ある特殊な美学に捧げられた人生が必然的に行き着いた極点である。」という言葉を記している。
この句の作者は、ラジオをマスメディアの一つの象徴として、大方の三島への批評を“ノイズ”と感じたのかもしれない。
三島忌はやたらに健全で明るすぎなければ、どんな措辞を持ってきても句が響いてくる。
実にエニグマチックな忌日(季語)である。
望月やガントリークレーン静かなる 鍛冶 美波
小六月にはか床屋のお母さん 田口三千代
遠い日の温かく懐かしい景が見えるようだ。
振ると種が散る、この遊びは作者がしたのだろうが、この季節の気紛れな風雨によってもあの種は、遙か彼方まで飛び散ってゆくことだろう。
人の声の高さに、白鳥の声は似ているのかもしれない。
「こんな小さな綿虫が・・・」と思っている内に
「あら、もう少し大きいのが来たわ。」と思っていると
「こんな大きい綿虫も!良く飛べるものねぇ・・」
という作者の賛嘆の声が聞こえるようだ。
か げ
天井に水光ゲあそぶ新豆腐 草刈勢以子
<水光ゲ>という美しい日本語に出会って先ず心惹かれた。
町の豆腐店はこの頃みかけなくなったが、油で黒ずんだ古い天井の記憶が蘇ってきた。
新豆腐というと私などはついつい其のもの自体に目がゆくが、些か遠いところからその目出度さに触れている所が何とも奥ゆかしい。
初雪や神の骨より白きもの 三品 吏紀
<神の骨>とは思い切った私的な措辞である。
見たことは無いけれど、それであれば曇り無く純白で無ければならない、と思わせる。しかし、それよりも白く穢れないものが初雪だという。
初雪を最上級に讃える句になった。
リップクリームひねれば冬のせり上がる 栗山 麻衣
<冬のせり上がる>とはリアルな表現だ。
こんな小さな化粧品(薬品?)の動きから冬を目測している感性が実に柔らかい。
枯草に足を取られて風もがく 矢口 以文
作者が枯草に足を取られた、と思って読み進むと下五の<風もがく>ではっとする。
これは風の足であったのかと。詩的な面白さがある。
俳句には出来るだけ擬人法を使わないように、という意見もあるが、全てを否定してしまうと名句の幾つかは消えてしまうことになるのでは。
稲妻にできそうにないバック転 宮川 双葉
稲妻は稲光のこととすると、あの剣のような直線(ギザギザ)の光が曲線になることはあるのかしら。それがバック転になるなど、ますますあり得そうもない。
あり得ないけれども、なんだか面白い発想だ。
立冬の午後コーヒーを深く淹れ 林 冬美
中七の<午後コーヒーを>という措辞がこの句を素敵にしている。
立冬になったという事実も午後になれば少し馴染んできて、コーヒを飲む作者に心のゆとりも生まれる。深くはゆっくり冬を受けとめている姿と、コーヒーの濃い色合いも思わせる。
三島忌やノイズにまみれたるラジオ 橋本 喜夫
およそ近年の作家の忌日として三島忌ほど捕らえどころのない忌日はない。
その著書の数冊を読んだぐらいでは、彼の最後の行動の説明は付かない。三島と長い親交があり、彼の英訳を担当していたドナルド・キーン氏でもその死の知らせを受け取って「思いもよりませんでした・・。」と言うのだから。
しかし、ドナルド・キーン氏はその全集で「彼の死は、ある特殊な美学に捧げられた人生が必然的に行き着いた極点である。」という言葉を記している。
この句の作者は、ラジオをマスメディアの一つの象徴として、大方の三島への批評を“ノイズ”と感じたのかもしれない。
三島忌はやたらに健全で明るすぎなければ、どんな措辞を持ってきても句が響いてくる。
実にエニグマチックな忌日(季語)である。
トーストに檸檬クリーム冬に入る 三国 真澄
この句は食卓の朝の景。軽いトーストに爽やかな檸檬クリームの香りが広がる。
肩の力を抜いて冬に入る、この明るさも快い。
金属に純度ありけり雪来る 高畠 葉子
色々な金属に囲まれて暮らしている私達の日常。それぞれ金属に固有の純度がある。
そんな、日頃気にならない事も、<雪が来る>という温度と色彩の変化で気付かされる。新鮮な視点だ。
ガントリークレーンとはコンテナなどを上下に持ち上げる時に使われるクレーンの事(純子さん曰く)と教えて頂いた。
クレーンというとあの首の長い鉄の支柱のような機械を思い浮かべるが、背丈の低い無骨なクレーンと望月の取り合わせも面白い。<静かなる>に安定感がある。
すれ違ふ犬の後から冬来る 小笠原かほる
散歩をしていると、良く犬を連れている人に出会う。品評会のように色々な種類の犬とすれ違う。
人間よりもその犬とすれ違う時に、ふっと冬の到来を感じた作者。
動物が纏う季節の気配があるようだ。
立冬の癖字アリバイめいて浮く 青山 酔鳴
癖字がアリバイめいて浮くというのは、その癖字に余程インパクトがあったのだろう。ミステリーの一場面のようで面白い。その癖字によってその人の存在を示してしまうほどの強さを持つということ。
季語の<立冬の>を、<立春の>とか<立秋の>などと入れ替えてみると中七下五が生きてこないということが、良く分かった。
こういう光景は今もあるのだろうか。
私が子供の頃は各家庭に髪切り鋏あって、縁側か何かに座らせられて髪を切って貰うということはあっただろう。遠い日の温かく懐かしい景が見えるようだ。
枯姥百合種からつぽにする遊び 久保田哲子
姥百合は結構背の高い植物である。
種から百合のような清楚な花を咲かせるには何年もかかると習った。振ると種が散る、この遊びは作者がしたのだろうが、この季節の気紛れな風雨によってもあの種は、遙か彼方まで飛び散ってゆくことだろう。
薬飲むための軽食冬はじめ 及川 澄
軽食。そんなに食欲をそそるわけではないけれど薬のために軽く食べておく。
そんな意識を持つことも冬に向かう人の心の準備と言えるのではないか。
白鳥に呼ばれしやうに振り仰ぐ 内平あとり
雪が降る前の夜空、白鳥の編隊が南を目指す。そんな光景に今年も何度か遭遇した。
何処から声がしたようで振り向いても誰もいない。そしてこの句の下五の<振り仰ぐ>という行為が自ずから生じる。人の声の高さに、白鳥の声は似ているのかもしれない。
綿虫に寸法のあり小中大 平 倫子
綿虫に寸法があるという発見が楽しい。それは全くその通りなのだ。
さらにこの句がユニークなのは、大中小としないで小中大としたことだ。「こんな小さな綿虫が・・・」と思っている内に
「あら、もう少し大きいのが来たわ。」と思っていると
「こんな大きい綿虫も!良く飛べるものねぇ・・」
という作者の賛嘆の声が聞こえるようだ。
風花やたしか腰椎すべり症 久才 透子
風花の心許なさを、<たしか>という曖昧な副詞で始めて、すべり症という病名なのか何なのか、ちょっとやふやな名詞で受けた。それが絶妙にフィットしている。
曰く言い難く俳諧味のある句。
以上です。橋本氏とは一味違う句会評、いかがでしたでしょうか。
みなさまのコメントをお待ちしております (事務局)
鑑賞ありがとうございました。高畠葉子さんが「狐のお金といって子供の遊んでた」と言ってくださいましたが、それを下地にしますと、中7字がまた別の面白さを表出してくれました。葉子さんに感謝です。
返信削除久保田哲子様
返信削除コメントありがとうございました。
子どもの頃大好きだった「狐のお金」遊びとこうして数十年の後に出会えたことをとても嬉しく思いました。感動の追体験と共有という俳句の魅力と力を改めて感じる事もできました!本当に俳句の力はすごいですね。