2013年8月17日土曜日
『ドライな目』 山咲臥竜句集「原型」を読む ~鈴木牛後~
『ドライな目』 山咲臥竜句集「原型」を読む
~鈴木牛後~
山咲臥竜さんの句集「原型」を読んだ。「臥竜」という俳号から、またツイッターでの「議論好き」という印象から(私がそう思っているだけかもしれないが)、かなり骨太の男っぽい作風をイメージしていた。
冒頭の三句
壺焼の腸勾玉の原型か
魚の氷に上るや我は火酒呑まん
料峭や塒の魑魅(すだま)薙ぎ払ひ
このようにイメージを裏切らない始まりだったのだが、通読してみると、実はかなり繊細なタッチの目立つ句集だった。
木々の芽や小さく畳みしラブレター
たをやかに爪弾く琴や花月夜
葉桜の風に光にシーツ干す
このように、女性的とも言える句も少なくない。
おそらく作者は男性的とか女性的などということに興味はなく、ひたすら俳句らしい俳句を追い求めているのではないかと思う。
そのことは、作者の人物像が作品上で明らかにならない、ということからも窺える。たとえば家族のこと。句集中に家族の姿を発見したとき、読者は作者に親しみを感じる。父母や子や孫への愛情を詠んだ句は当然であるが、肉親との埋めがたい距離を感じさせる句であっても、家族との間に交わされる感情の行き来には心を動かされるだろう。
だが、句集中には家族を詠んだ句はほとんどない。意識的に除いてあるのかと思うほどだ。
蛆いぢりゐて母の平手を食らひけり
これが唯一かと思うが、これとて句の主役は母というより蛆の方であるかもしれない。
作者がひたすら俳句を求めているということは、道徳とか倫理というようなものに対して距離を置いていることからも窺える。
紅梅や少女と微熱分かち合ひ
長襦袢解けば刺青や月おぼろ
夜霧濃し娼婦は赤き唇(くち)ゆがめ
このような、怪しげな雰囲気の句も散見される。これらの句が成功しているのかどうかは私には見極められないが、読者に対して「いい子」になろうとする意図はないようだ。一種のスパイスとして集中に潜ませるという演出なのかもしれないが、ここは、きれいごとではないことを詠むことで、安易な抒情に流れることを拒んでいるのだと受け取りたい。
また、作者の主観を表明した句も少なく、事象を丹念に詠むことで世界を表現しようとする意志が感じられる。だが一方で、作者が世界に対してどのようなスタンスで臨んでいるのかということは、一読者として興味がある。作者の意図とは別に、それが句集を読む楽しみのひとつであるからだ。しかし作者はそんな読者の詮索を断ち切り、俳句のまん中を歩んで行こうとしているのだろう。
最後に好きな句を挙げておきたい。ドライな目で対象を見つめる句が私には好ましく感じられた。
青年の横顔に髭梅月夜
下萌に鼻擦りつけて駒の昼
花冷や卓にこぼるる粉薬
佐保姫やうすくれなゐの貝の肉
しなやかにかひな二本や更衣
草の上の蛇は草より濡れてをり
汗の子の果実めくなり風の丘
夜の秋貝殻骨に影ほのか
爆心地跡の屋台に舌焦がす
赤飯に胡麻塩の斑(むら)鳥渡る
これよりは鬼の棲むべし夕紅葉
ひからびし一枚の皮膚まとひ冬
帰り花咲く散りぎはのやうに咲く
日溜りへ枯野の沖を掻き分くる
雪の上に血溜りそこへ積る雪
風花や屠りし牛の黒目にも
野良猫のゆるぶ眥(まなじり)日脚伸ぶ
☆鈴木牛後(すずき・ぎゅうご 俳句集団【itak】幹事 藍生同人)
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