俳句集団【itak】第7回イベント 抄録

久保田哲子
私と俳句
~門前の小僧的な~
2013年5月11日・道立文学館
結成1周年となった【itak】は5月11日、7回目のイベントを札幌の道立文学館(中央区中島公園)で開きました。今回は、鮫島賞、北海道新聞俳句賞の受賞者で札幌の俳人、久保田哲子さんが「俳句と私~門前の小僧的な」と題して講演しました。久保田さんは、俳句の恩師である永田耕一郎さん(1918~2006年)や藤川碧魚(へきぎょ)さん(1920~95年)から学んだことや両氏への思い出、自身の俳句に対する姿勢などを紹介しました。講演の内容を詳報します。
●10、11歳の作品
風鈴のなる音一つ涼しけり (「小学四年生」掲載)
てつ夜する父の片手にタブレット (同上)
蕗のすじ取って母の手黒くなり (「小学五年生)掲載)
■始めは賞品目当て
私が長く俳句を続けられたのは、良い先生に巡り会えたおかげだと思っています。
私が俳句を始めたのは10歳、小学校4年生のときでした。担任の先生に、よく作文を書かされました。その先生は、小説を書き、芥川賞の候補にもなられた方で、作文に添削で赤字を入れてくださいました。そしていつも「感じる心を大切に」と書いてあり、そのことが(俳句に興味を持った)大きな要因になったと思います。
当時、講談社の「小学四年生」という雑誌に文芸欄があり、俳句もありました。そのうち、私もできるかなと思いつきまして、「風鈴のなる音一つ涼しけり」という句を出したところ掲載され、予期せぬ賞品が届きました。ピンクのセルロイドの筆箱でした。うれしくて、また投稿しましたら、また載ったのです。それからは欲が出まして。賞品ほしさに俳句を作り続けました。ですから私の俳句のスタートは「賞品目当て」だったのです。
中学、高校では短歌も作っていました。18歳で会社に入り、本当は短歌をしたかったのですが(会社のサークルには)なかったので、俳句の会に入りました。上司が「白魚火(しらおび)」の同人で俳句の指導をされていました。入会すると、まず「歳時記」を買うように言われ、そのとき初めて「歳時記」というものを知りました。土曜日が半ドンでしたので、仕事のあと吟行をして、夜は句会へ。7句持参なのですが「何でもいいから作りなさい」と言われ、とにかく死にものぐるいで作りましたね。句会では優しそうなおっとりしたおばあさんの隣に座ったのですが、清記用紙の回ってくるのが早いのです。選句も早い。知らない漢字や言葉も沢山ある。調べるそばから用紙がたまってゆく。何回も人に聞くこともできませんし、私には大変なことでした。
■自分を解放するため
句会は熟練者ばかりで、私は初心者。毎回、座布団を敷いたり、机を出したり、お茶を出したり。遅れたら、コートを脱いで、膝をつき、あいさつして入っていくという有様でした。礼儀正しい方々でしたので、緊張して句会に行っていました。頑張って句会に出ても、一つも採られないということも続きました。
30歳になって子育て俳句を作りました。このころ、お母さんたちは子供の勉強や習い事や運動などにとても熱心でした。私のまわりだけだったのかもしれませんが、私はそういう輪に入るのは苦手であり、どうしたら子どもに客観的でいられるのか、どうしたら子供を追い込まないですむのか―を考えた時期でもありました。それで俳句に没頭したいと考えたのです。このころから本当にいろんな方の句集を読みました。主婦はどうしても「誰々ちゃんのお母さん」「誰々さんの奥さん」という位置づけで見られますので、どこかで自分だけの世界を作りたかったのだと思います。自分を解放させたいと思ったからか、このころは「鳥」の句が多かったですね。
「白魚火」はホトトギス系ですが、勉強するに従い、どうしてもなじめなくなっていました。みなさんに良くして頂いていたので、脱会はつらいことでした。白魚火には19年いました。
その後、当時、北海道新聞の俳句欄の選者であった永田耕一郎先生の「梓」に入りました。道新の俳句欄の(永田先生の)選評がすばらしく、この先生の下で学びたいと思いました。ところが、梓に入ると本当にみんな実力者ぞろい。俳句も文章も上手な方ばかりでした。最初は居場所がなかなか見つからず、苦労しました。梓の中でも若手でしたので、先生の家で句会をするときも先輩たちについて最後に入ると、先生の横しか空いてないという状態でして、私は毎回緊張してそこに座っておりました。
●20代の作品 ( 句集『白鳥来』より )
草の色花の色ある雛あられ
春愁のわれを離るる蒸気船
風車いつせいに回り色失ふ
草の色花の色ある雛あられ
春愁のわれを離るる蒸気船
風車いつせいに回り色失ふ
初蝶に出会ひコーヒー匂ふ街
信じやう信じやうと蝉鳴ける
■和式トイレは白鳥?
いっぱい失敗もありました。句会で消しゴムを忘れたときに、ちょうど目の前に小さな消しゴムが転がっていまして、「お借りします。ありがとうございました」と言って使ったのですが、後から先輩から呼ばれ「あの消しゴムは先生のものなのよ。先生はプライベートのことにだらしない人はお嫌いなの。気を付けなさい」と注意されたことも。また、句会中にコーヒーがでた際、先生は左手がご不自由だったので、砂糖の袋を切ってあげようとしましたら、うまくいかず袋ごとコーヒーに落としてしまいました。先生も「あっ」という顔をされており、良い方法が思いつかないので、仕方なくスプーンで袋をすくい上げて取り出し、「どうぞ」とコーヒーをお渡したところ、先生は「うん」と言って飲んでくださいました。ドジな弟子にも優しい、良い先生だなと思いましたね。
当時、藤田湘子さんが1日10句という荒行をしておられました。私も真似て、10句は無理なので1日2句という小荒行をやりました。1カ月で60句。それを持って永田先生の元へ通っていました。ある日、「先生、聞きたいことあるのですが。笑わないで聞いてくださいね」と切り出して「小さいときから思っていたのですが、和式のトイレを見るとなぜか白鳥が来て座っているように見えたのです。これをいつか俳句にしたいと思っていたのですが、なかなかきれいな言葉が見つからないのです。先生、何か良い言葉ありませんか?」。多分笑われるだろうと思っていましたのに、先生は真面目な顔で「そうだね・・・」と考え始めまして、長い時間かんがえてくださいました。ドジな弟子なのに有難いことでした。その後、永田先生は2度目の脳溢血で倒れられて、「梓」は廃刊になってしまいました。その後、大串章さんの「百鳥」に入会して現在にいたっています。
■「碧魚を驚かせるぞ!!」
最初に俳句を教えてくださったのは、(上司で白魚火の)藤川碧魚さんです。ホトトギス系の方で、俳句とお酒が大好きでした。出張すると仕事はすぐに終わらせて吟行に行くと漏れ聞いていました。
私が21歳くらいで、俳句を少し面白いと思い始めたころに、碧魚先生に質問をしました。「季語は5文字のものが多いですが、残りの12文字でどう自分の個性を出せばいいのでしょうか?同じ季語を使えば、類想類句はまぬがれないのではないでしょうか?」。そうしましたら、飲んでいた先生が急に怖い顔になり「とにかくたくさん作れ。理屈を言うのはそれからだ」と怒鳴りました。びっくりして、私も周囲も凍りつきましたね。そのあと、「分かりました。これからたくさん作ります」と答えるので精いっぱいでした。最初は恥ずかしかったけれど、帰りのバスの中では悲しくなりました。俳句ごときにそんなに怒らなくてもいいのに、もう少し優しく言ってくれてもよいのに、と正直思いましたね。でも、日記には、「いつか良い句をつくって碧魚を驚かせるぞ!!」と書きました。碧魚先生が教えてくださったことは、「とにかく舌頭千転」「必ず声調を整えなさい」「よくモノをみて作りなさい」「頭だけで作ってはいけない」「たくさん作って、たくさん捨てなさい」ということでした。感謝していますのは、添削指導の際に先生が「ここは哲っちゃんの良いところだから、残しておいたほうがよい」と言ってくださったこと。もし私の俳句に個性があるとしたら、碧魚先生の指導のおかげだと思っています。
■「見せる」より「見える」句

先生はとても厳しい人でもありました。句会で、ある人が斬新な句を出しました。言っていることも斬新、季語も斬新、目立つ句でした。かなり点数が入りましたが、先生は採らなかった。そして「作者はどういう気持ちでこの句を作ったか知らないが、僕はこんなことでは驚かない。この句は狙いが見えすぎている底の浅い句だ。見せる句と見える句は違う。見せる句は作者の虚栄心が先走る。いわゆる自己満足に過ぎない。見える句は素直さが自分自身を好ましく表してくれる」と言われました。
●30代の作品 ( 句集『白鳥来』より )
あたたかき子の手をひけり秋祭
すこし泣きすこし手袋濡らしけり
あたたかき子の手をひけり秋祭
すこし泣きすこし手袋濡らしけり
霜の夜好きといくども子に言はれ
セーターの胸を汚して反抗期
子に乳房触れられてゐし冬銀河
■第一句集の思い出

永田先生は無季の句も作られました。「頬によみがへる軍帽の紐雨したたる」―これは無季の句です。先生は「無季の句をつくって、季語の大切さを知った」と言っておられました。「季語は俳句における約束事ではない。季語を通して自分の内奥のこえ、内面のありようを表すものだ。だから季語を通して季感を感じ取り、季語の奥深さを真に知らなくてはならない」と。「季という器の中に自分があることを忘れてはならない」ということです。
先日の道新の「朝の食卓」に「雪が解けたら」というコラムが掲載されていました。理科の先生が低学年の子供たちに「雪が解けたら何になるか」と尋ねました。ほとんどの子が「水になる」と言う中、一人の子が「春になる」と答えました。その子は農家の子で、おじいちゃんが「雪が解けたら春が来るぞ。忙しくなるぞ」と言うのを聞き、それでそう思ったそうです。このコラムを見て、私は「この子は季感や季節の移りを素朴に全身で感じ取っているな」と感心しました。季感はとても大事なことではないでしょうか。
●40代の作品 ( 句集『白鳥来』より )
雪止みぬ鶴の形となり歩む
雪止みぬ鶴の形となり歩む
近づいて来し白鳥に帽子脱ぐ
水鳥に水尾といふ過去きらきらす
春の朝翼のやうにレタス盛る
払ひても払ひても雪馬を売る
もう一つ、永田先生の言われたことは「既成の概念、自分の固定観念で句を作らない」ということです。「俳句に観念は必要だが、観念をいかに具象化させることが大切だ。そして、物を見るときはつねに新しい目で見ないといけない」と。先生は、ほかにもこんなことを言われています。「思いは深く、しかし言葉は分かりやすく」「俳句はことがらを述べるのではなく、ことがらが見えるように表現しなさい」「解からせようとすることが散文的表現につながる。俳句は意味を詠うのではない。自分という人間の内面のある一瞬を把握するもの。それをいかに普遍化するかが大事だ」
私は、最初はホトトギス系で客観写生を教えられました。その後、人間探求派の寒雷系の先生に学び、叙情派と言われている先生に学んでいます。しかし、俳句が求めていくものはそれほど大きく異なることないと思っています。
俳句は断定する詩型です。言い切るという意識を捨てるとただの詩の断片になってしまう。俳句に詩は必要だが、詩の断片ではありません。17音の詩として完結しないといけない。完結するためには、俳句の中で切ること。古いと思われるかもしれないが、決して古くはありません。切ることによって空間が生まれ、そこに読者は想像の翼を広げられます。俳句は「あれもこれも」ではなく「あれかこれか」ということです。短い表現のおかげで、散文にはない力強さを発揮します。それが俳句の醍醐味ではないでしょうか。
皆さんも休み休みでもよいですから、ぜひ長く俳句とつきあっていってください。
くぼた・てつこ 北海道上川管内愛別町生まれ、札幌市在住。
10歳で初めて俳句を作る。18歳の時、職場句会に参加。昭和45年「白魚火」入会、「白魚火」新鋭賞。同59年には「梓」入会、「梓」新人賞「梓」賞。平成5年に第一句集『白鳥来』。同8年「百鳥(ももとり)」入会。同19年、第二句集『青韻』。同20年『青韻』にて第28回鮫島賞、第
23回北海道新聞俳句賞。同24年「百鳥」にて鳳声賞。
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