『りっきーが読む』(最終回)
~第5回の句会から~
三 品 吏 紀
・雪には積もる雪と積もらない雪がある。
積もらない雪というのは、いわゆるパウダースノーというか、風が吹くと簡単に飛ばされてしまうような、小さく軽い雪。 逆に積もる雪は、雪の一粒一粒が大きく湿っていて、且つ地面に落ちても直ぐ溶けない。 これが非常に厄介で、積もるスピードが速い上に湿っているため、雪かきの際は非常に重く、大変苦労をする。 雪かきでギックリ腰なんていうのも、よくある話だ。
…さて、話を句に戻して、この句の「音無き音」とは何なのか、改めて考えてみた。
当然の事ながら、雪が積もる際に音はしない。
音はしないが、よく耳を澄ましていると、かすかに「ちりちりちり…」なんて聞こえてくる。 これは降る雪が自分の帽子やコートをかすめていく音だ。
雪国の、特に北海道の多くの人は雪の日でも傘を差さずに歩く。 なので、雪が自分の身体をかすめていく音を聞くことができるのだ。 大雪の真っ最中に雪かきをしていたら、嫌でも聞くことになる。
これが「音無き音」。
聞こえるようで聞こえない。聞こえないようで聞こえる音が、雪の日には静かに響いているのだ。
初春や人集ひ来る詩が生まる
・…んん?これはひょっとして、itakそのものを詠んでいてくれてる様な?
以前からたびたび触れているように、itakは常に色々な人が出入りしている超結社の集団。 毎回と言っていい程に、新しい顔が句会に出ている。
知人からの誘いや広告、様々な伝で集まったこの俳句集団は、今まさに『詩』を紡いでる真っ最中だ。
集まってくる一人ひとりが自分の『言葉』を持ち、その『言葉』がどんどんより合わさって、『詩』が生まれる。
そしてその詩が【itak】そのものなのだ。
【itak】はまさに参加者一人ひとりの『言葉』で生かされている。
感謝。
願ひなきわが身を憂ふ初詣
・んん~~、憂う必要はないんではないの?なんて無責任に思ってみたり(苦笑)
神様に願掛けするというのは、何か絶対に手に入れたいもの、叶えたい事があるからするもの。
しかしそれが無いというのは、精神的に充足しているということだから、ある意味理想的な心理状態とも言えるのではないか。
この句から浮かぶイメージというのは、初詣に来たはいいけど、願うことが特に浮かばない。 なんとか心の中でお願い事を探すも簡単には出てこない。 その間に自分の後ろには次の参拝客が続々と。 焦る自分。 そして結局は何も思うこともないまま、とぼとぼ帰っていく。そんな切ない光景を思い浮かべてしまう。
吹雪の夜おとぎ話の続きをり
・吹雪の夜というのは、どうにも不安を煽るものだ。 時折聞こえる虎落笛、窓を激しく打つ雪、そして夜の闇。 子供達がこれらの恐怖から逃れるには、布団の中に潜り込んで、おとぎ話を聞くのが一番だろう。
子供の頃に枕元で聞かされたおとぎ話。細かい内容はともかくとして、所々で憶えている方も多いと思う。 自分の頭の中にも、家族の誰の声かは忘れたけど「むかしむかしな~~、あるところにな~~、じーさんとばーさんがな~~」というフレーズが頭の片隅にこびりついている(笑)
吹雪の夜の度に思い出すおとぎ話。 その続きを話すのは今度は自分の番。
そうやって、家族の愛と記憶は脈々と受け継がれていくのだろう。
……以上で、「りっきーが読む」を終了したいと思う。
今回この企画を受け持って改めて感じた事とは、句を自由に読むことの楽しさと、それを文にして人に伝えることの難しさ。 この二つに尽きる。
「読む」というのは句からの情報を頭の中で映像化して、その句の背景などをイメージして読み取っていくものだと思う。 いわゆる妄想(笑)
しかしそれを今度はもう一度自分の言葉に直し、文章として人に伝えるというのは、とても力の要るものだと知った。 どうすれば自分のイメージしたものが、他の人にも伝えることができるか? どんな言葉を使えば、読む人が理解しやすいだろうか? そんなことをアァーとかムぅーとか唸りながら毎晩原稿をカキカキしてたわけで。
ともあれ、最後まで読んで下さった方々、本当に有難うございます。稚拙な文章で申し訳ない。
とりあえずもう、妄想しまくってお腹いっぱい(笑)
三品吏紀
(了)
0 件のコメント:
コメントを投稿