2013年2月6日水曜日

『りっきーが読む』~第5回の句会から~(その3)







『 りっきーが読む 』 (その3)

~第5回の句会から~



三 品 吏 紀


くり返す破壊建設氷橋


・何かスケールの大きいような、最近続いた人災がらみの事故を詠んだのかとも一瞬思ったが、実はとても身近な事を詠んだ句なのだと、さっき仕事場の前の氷割をして気付いた(笑)
屋根の雪解けなどで伝ってできた水溜り。これが夜までにうっすら凍って、氷が張るのだ。 しかし水溜りは底まで完全に凍りついておらず、表面の氷がいわゆる『氷橋』になるわけだ。
これが雑踏の中であっという間に破壊される。 そして翌日また太陽によって氷が溶かされ、水溜りが出来る。 これがまた凍って氷橋ができ、それがまた踏まれて割られて……のくり返し。
ただそれだけの事なのだ。
本当に些細な事、身近な事を言葉の使い方・並べ方一つでこうもスケールを大きく思わせる句。自分にとってこういう句は非常に勉強になる。



子持ち鱈だらりだらりとさばかれり



・この時期、鍋の具材などでとても重宝する鱈。頭から何から何一つ捨てる所無い、家庭に強い味方のお魚だ。
この句の中七『だらりだらり』という表現からするに、まな板の上に載ってるのはスケトウダラよりも、より大きい真ダラの方が、この句には合っているだろう。真ダラは大きいものだと一メートル以上にもなる。
大ぶりの鱈が二枚・三枚とおろされる様は、まさに「だらりだらり」といった様子に見えるのか。 実際サンマやサバなどでは、こういう表現はマッチしないだろう。 鱈だからこそハマッタ句だと思う。
句会では点には入れなかったが、これも好きな句の一つだ。



朝湯して年の始めの旅ごころ



・年の始めは一年の目標を立てたり計画を練ったりなど、色々新しい事に取り組みたいなぁ、なんて思うもの。 実行できるかどうかはともかく、あれもこれもと計画するのは、どこか旅行計画を練るときのワクワク感に似ている。
この句の『旅ごころ』というのは、旅に出ることそのものを指しているのではなく、人生のこの先の目標とおぼろげな期待というものを、うたっているのではないか。 朝湯の湯気にまみれて、ぼんやりこの先一年のことを考える。
365日という日々を駆け抜けるにあたって、ひと時リラックスしながら「ゆっくり、ぼんやり考える」時間というのは、人が生きる上でとても大切なことじゃないかと思う。



手ぶくろの中でグーの手つくってる



・これ、いまいちピンと来ない方がおるやもしれんので、一応解説しておく。
当然のことながら真冬で氷点下の外を歩くには、手袋は必須。 しかし、-10℃、-20℃ともなると、いくら手袋をしていても指先が冷えてジンジン痛くなる。
なのでついつい、手袋の中で指だけ抜いて、手をぎゅっと握り締め、グーの状態にして指先を温めているのだ。
ポケットの中に手を入れたまま歩いたら当然危ないし、かといって外に手を出してるとやっぱり寒い。 ということで、こういう具合になってしまうわけだ。
まさに寒冷地ならではのワンシーンを切り取った句だと思う。



荒星や父の怒声に力なし



・この句の父親はきっと厳しかったのだろう。 何かにつけてすぐ叱責が飛ぶ。 しかしそんな父の怒声にも力が無くなっていく。 それはただ単に老いなのか、病なのか。
いずれにしても父親に対して愛情があったから、こうやって句にも詠めるのだろう。
ふと、自分はどうだったのだろうか?
自分は二年前に父を亡くし、そして父の死後に父の句をいくつか詠んだ事があったが、果たしてそこに愛情があったのだろうか。
正直、父とは生前からあまり仲は良くなかった。同じ屋根の下に居ながら、話すどころか週に一度顔を合わせるかどうかだった。 もちろんそれには理由があったのだが、まぁそれは置いておくとしよう。
改めてこの句を読んで、父の亡くなる前数週間の事がオーバーラップして、何とも云えない気持ちになる。 父の病気の苦しみと余命いくばくかの心配と、今まで積もり積もった父への恨みにも似た感情。 それらがないまぜになって、なんとも苦しい気持ちになる。 どこか腹の底でチクリチクリとされてる気分。
この気持ちはたぶん、もうしばらくは続きそうだ。




(その4)に続く





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