2016年12月19日月曜日

第29回イベント 講演会『寺山修司俳句の解剖学』


















今なお新しいファンを作り続けている永遠の作家・寺山修司。
俳句、短歌、詩、小説、戯曲、劇団主宰、映画監督、作詞家、競馬評論家・・・

多方面にわたって活躍した寺山修司であったが、その文学のスタートラインは
俳句であった。
にもかかわらず、現代俳句界でここまで無視されている俳人も少ない。


天才への嫉妬か、それとも剽窃者への断罪か?


第23回現代俳句評論賞を受賞した「寺山修司俳句論~私の墓は私のことば~」と、「言語の風狂~その後の寺山修司俳句論~」(「雪華」誌発表)の2篇を再構築し、五十嵐秀彦があらためて寺山修司俳句の謎に挑む。

*と き 平成29年1月14日(土)午後1時~4時50分
*ところ 北海道立文学館講堂(札幌市中央区中島公園1-4)
*参加料 一般500円、高校生以下無料


  ●第1部 講演会 『 寺山修司俳句の解剖学 』


講 演   五十嵐秀彦(俳人)

●第2部 句会(当季雑詠2句出句・投句締切午後1時)

●懇親会のお申し込みもお受けします。


いがらし・ひでひこ (1956年3月12日生まれ) 現代俳句協会会員、俳人協会会員、北海道俳句協会会員。
「藍生」会員、「雪華」同人、俳句集団【itak】代表。
著書:句集『無量』(書肆アルス)
共著:花森こま編『君住む街角』(文学の森社)
2003年 第23回現代俳句評論賞、藍生新人賞
2004年 雪華俳句賞
2013年 句集『無量』発刊、北海道文化奨励賞、藍生賞、
北海道新聞俳句賞佳作(『無量』)












2016年12月17日土曜日

第29回俳句集団【itak】イベントのご案内


俳句集団【itak】事務局です。
ひと月あまり早い根雪の報に、道産子ながら辟易しております。
世の中はあっという間に師走の慌ただしさとなりました。

第28回イベントには55名のご参加をいただき、ありがとうございました。

山之内悦子さんによる講演会『うちらには日本語がある』はいかがでしたでしょうか。
ご感想などお寄せいただければ幸甚です。

抄録は【itak】ブログにて近日公開予定です。
またブログでは皆さんの各種ご寄稿・情報もお待ちしております。

下記内容にて【itak】の第29回イベント、講演会を開催いたします。
どなたでもご参加いただけます。多くの方々のご参加をお待ちしております。
第一部のみ、句会の見学のみのご参加も歓迎です。
実費にて懇親会もご用意しております。お気軽にご参加ください。


◆日時:平成29年1月14日(土)13時00分~16時50分
◆場所:「北海道立文学館」 講堂
      札幌市中央区中島公園1番4号
      TEL:011-511-7655


■プログラム■

 第1部 講演会

     『寺山修司俳句の解剖学』

     講 演:五十嵐秀彦(俳人・俳句集団【itak】代表)


 第二部 句会(当季雑詠2句出句)

<参加料>
一   般  500円
高校生以下  無  料

(但し引率の大人の方は500円を頂きます)

※出来る限り、釣り銭の無いようお願い致します。
※イベント後、懇親会を行います(実費別途)。

  会場手配の都合上、懇親会は事前のお申し込みが必要になります。
   会場および会費など、詳細は下記詳細をご覧ください。


■イベント参加についてのお願い■

会場準備の都合上、なるべく事前の参加申込みをお願いします。
イベントお申込みの締切は1月12日とさせて頂きますが、締切後に参加を決めてくださった方もどうぞ遠慮なく申し込み下さい。
なお文学館は会場に余裕がございますので当日の受付も行います。
申し込みをしていないご友人などもお連れいただけますのでどなたさまもご遠慮なくお越しくださいませ。


お申し込みには下記のいずれかを明記してくださいませ。
①講演会・句会ともに参加
②講演会のみ参加
③第二部句会のみ参加(この場合は前日までにメール・FAXなどで投句して頂きます。)


特にお申し出のない場合には①イベント・句会の通し参加と判断させていただきます。
なお、投句の締切は当日13:00です。

第二部からご参加の方、また天候や交通状況で間に合わない場合等は、13:00までに

  itakhaiku@gmail.com 宛ご投句ください。

※欠席投句は受け付けておりません。悪しからずご了承ください。
※第二部に会場に到着できない場合はご投句を削除します。委細必ずご連絡ください。

 

◆イベント後・懇親会のご案内(新年会を兼ねております)◆

会場:中国料理 満漢楼 ( マンカンロウ )
    中央区南4条西5-1 札幌東急プラザ2階(エレベータあります)
時刻:17:30~19:30
会費:4000円(コース+食べ飲み放題)
  ※イベント受付時にご精算をお済ませください。
  ※当日のキャンセルは後日会費を申し受けます。
  ※二次会のご用意はございません。

店舗準備の都合上、懇親会は必ず事前のお申し込みをお願いします。
懇親会申し込みの締切は1月10日とさせて頂きます。
以降はキャンセル待ちとなりますがお問い合わせください
参加希望の方はイベントお申し込みのメールに ④懇親会参加 とお書き添えください。

おせち料理に飽きたところ、多くの方と中華料理を楽しみたいと思います。

ちょっとでも俳句に興味ある方、今まで句会などに行ったことのない方も、大歓迎です!
 軽~い気持ちで、ぜひご参加ください♪
句会ご見学のみのお申込みもお受けします(参加料は頂戴します)。


北海道立文学館へのアクセス
※地下鉄南北線「中島公園」駅(出口3番)下車徒歩6分
※北海道立文学館最寄の「中島公園」駅3番出口をご利用の際には


①真駒内駅方面行き電車にお乗りの方は進行方向先頭部の車両
②麻生駅方面行き電車にお 乗りの方は進行方向最後尾の車両にお乗りいただくと便利です。


 

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2016年12月15日木曜日

りっきーリポート #20 今年もラスト句会!の巻

11月12日、曇~り空。

正午をとうに過ぎた時間、私りっきーは未だ札幌に向かうバスに揺られておりました。
気持ちは焦れど、バスが着かない事にはどうにもならない、そんなじれったい気持ちで一杯でございました。
いつもなら朝一のバスで11時には札幌駅に到着、他の幹事さん達とも合流して我らitakのホームである道立文学館に向かっている筈なのですが、この日に限ってはその朝一の高速バスが取れず、やむなく次の便で移動を始めたのでした。
・・・というのも、この日(正確には前後三日間)は札幌で某アイドルグループのコンサートがあり、全国からそのファンが追っかけてきて市内は混乱している、という様でした。
高速バスは当然のごと宿の予約もままならず、タクシーに乗っても駅前が渋滞していて近道が通れないという、なんとまぁカオスな状態。
それでも時間ギリギリに着けたのは、ワタクシの日頃の行いが良いせいだとつくづく実感しましたねぇ(え?

さて、今回の講演は山之内悦子さんによる「うちらには日本語がある」というお題でのお話。
英語通訳者であり海外在住の山之内さんによる、「言語」についてのお話は非常に興味深く、そして共感する事もありました。
特に英語に訳しきれない日本語(その逆もあり)についての話題は、聞いてる学生さんや他の参加者の皆さんも興味深く食いついており、ちょこちょこと質問なども飛び交っておりました。そのやり取りを聞きつつ、私りっきーにも心当たりがあるなぁと、一人ふんふん頷いておりました。
実は私りっきーも某国に数年住んでたことがあり、この「日本語にはあるけど外国語では表現できない感情」または「外国語から日本語に直訳できない感情、動作」というあたりに戸惑った思いがあります。
互いに近いニュアンスの言葉で訳しようとしても、その状況の感情や様子が上手く伝わらなくなってしまう、または誤解されてしまうという、そんなジレンマに陥ったこともありました。
・・・んまぁ、この辺の詳しい内容は別途抄録にアップしますので、是非そちらを読んでいただければなぁ、と思いますm(__)m

今回の句会はいつもよりも少なめで(それでも50名は居るんだけどね・・・(;´∀`)
高校生も今回は二人だけというちょっと物足りない感じ。まぁでも時期的に受験や諸々行事も重なる時期だから、仕方ないよね。

この日潮陵高校の二人が投句してくれた句は、なかなか面白く実験的な句だなぁ、でも俳句甲子園では出せない句だよね、なんて今までとはちょっと雰囲気の違う感じを見せてくれました。
これまでは一生懸命さがズズイっと前面に出て、良くも悪くも「肩に力の入った」句が多かったのですが、俳句甲子園や様々な句会を経験したおかげか、イイ感じに力の抜けた句が増えてきて、参加者が関心を引くことも多くなりました。若いってイイなぁ、スポンジが水を吸う様にどんどん色んな事を吸収して成長できるんだから。
来年はまたどんな姿を見せてくれるのか、楽しみであります( ̄▽ ̄)

さて、今年のitakはこれで終わり。
来年のitak1発目は、なんとウチのBOSSが登場です!しかも真骨頂の「寺山修司」について熱く語ってくれます!
寺山修司に興味がある方、BOSSに興味ある方(え?)、俳句にちょっとでもいいから触れてみたい方、そんな方々は500円玉握りしめて、ぜひ1月の第二土曜日、道立文学館へお越しください!
学生も大人もどんと来いっ!!

2016年12月13日火曜日

俳句集団【itak】第28回句会評⑤ (橋本喜夫)


俳句集団【itak】第28回句会評⑤

  2016年11月12日
 
橋本喜夫(雪華、銀化)
 
 
 小春日やネジのゆるみし老眼鏡   平野 絹葉


小春日、ネジのゆるみ、老眼鏡の老い 関係性は近い。だから共感は得られると思う。とても感じのよい句である。眼鏡のつるの蝶番のねじは本当によくゆるむし、年を取ると体のいたるところのパッキンがゆるむ。老いのいう観念めいたものを詠まずに、「老眼鏡」というモノを詠んだことが最終的にこの句を成立させたのだと思う。

 
 もみじ舞う私の中の少年へ      酒井おかわり

 
自分のなかに内在する少年性を詠むとき、鹿など動物を詠むことが多い。そういう意味でもみじは珍しい。それと俳句に詠みも読みも性別ジェンダーは無関係であるが、この句を採ったひとはできたら、女性の句であってほしいと思ったかもしれない。名乗りのあとでいつものように落胆の声が漏れた。

 
 介護士の背に手を添ふる小六月   松田 ナツ

 
気になった句である。ただし話し手がこの句の主人公なのか、介護士、介護されている人を外で観ているのか?作者の立ち位置がよくわからない面があった。介護士の背中に手を押し当てて歩行訓練をしているところだろうか。働いている介護士の方をお手伝いしているのか?とも思った。直截的に添ふるではなくて、当つる でもいいのかもしれない。

 
 まだ少し草の炎の色冬に入る     古川かず江

 
今年のような冬へのスピードだと実感のある句である。まだ十分にいきいきした色を呈しながら雪に埋もれていった草花だった。まるで草の生き埋め状態である。そんな今年の状況を過不足なく表現できている句。

 
 氷下魚の百度叩いて百度嚙む    ふじもりよしと

 
昭和世代にはたまらない句。天でいただいた。私の頃はコンビニもないので、「ソフトかんかい」などは存在せず、「げんの」で叩いて軟らかくして、から毟って食べる。そのままかじると歯が折れるくらいの硬さで、よく噛んでたべないと「腹が痛くなるよ」と亡き母やじいちゃんに言われていた。亡き父には「たくさん食べすぎると盲腸になる」と嘘くさい脅かしをうけていた。子供時代にはおやつがわりに毎日でも食べた。中七以下の百度のリフレインも口誦性があり、よくできている。北海道季語の例句として採用したいくらいの佳品。

 
 荒ぶるを生業とせし冬将軍       三品 吏記

 
あまり人気がなかったようであるが、冬というモノを大づかみした佳句と思う。とくに中七までの大づかみな、擬人法が奏効している。惜しむらくは過去形の「せし」ではなくて「せる」にすべきと思う。生業は「なりわい」と読ませるべきであろう。

 
 不意討ちの冬の初めやココア飲む  辻村 幹子

 
中七までの措辞は前述したように今年の北海道の冬を言いえている。そのあとの実生活としての「ココア飲む」がこの句を落ち着かせて、逆にリアルなものにしていると思う。中七のや切れはけっこう難しいのだが、この句はうまく嵌っている。

以上、最後の方は腰が痛くなって、走り書きになりました。それでは皆様また次回まで(了) 

※主宰業のお忙しい中の句会評、いつもありがとうございます。来年も変わらぬ喜夫節でバッサバッサとご句評下さい。本年も残り少なくなりました。句会にご参加下さった方々に、心より感謝いたします。風邪などお召しになられませんよう、どうぞご自愛くださいませ(幹事会一同)。


 

2016年12月11日日曜日

俳句集団【itak】第28回句会評④ (橋本喜夫)


俳句集団【itak】第28回句会評④

  2016年11月12日
 
橋本喜夫(雪華、銀化)
 
 
 襟巻の狐の手足宙を掻く        遠藤ゆき子

襟巻の狐の顔はほかに在り  虚子 という超有名句があるので、だれしも襟巻そして狐には俳句として手をつけない傾向にあった。狐の襟巻を真正面から扱った句としてとてもうまくできていると思う。動作がみえるのがよい。すこしゆるんだ狐の襟巻を妙齢の女性が巻き直す、風に吹かれるように、その瞬間屍である手足が宙を掻いている ストップモーションのように見えてくる。ただしこんな女性最近いなくなったね。絶滅危惧種かもしれぬ。


 冬紅葉シニア屍にやと掃かれたり   山田美和子

とてもアイロニーがあり面白いと思う。冬紅葉を掃除している。ほとんどがシニア世代である。そしてその世代はもう少しで「死」を迎える世代でもあり、冬紅葉も屍のひとつである。シニア屍にや の語呂もよい。もちろん発想は川柳的なのかもしれない。


 冬木立誰かの手ぬぐいの掛かる    銀の小望月

詠まれてる事象は対したことはないのであるが、中七から座五までの句またがり表現が何かしら物憂げで、屈折があって面白い。冬木立というのはたくさんある木を示すのですこしぼやけた感じもする。冬木のうちの一本に手ぬぐいがかかるという表現が本当はよりインパクトがあると思う。たとえば いっぽんの冬木に誰かの手ぬぐい とか。


 二重窓の中が好きなの冬の蠅     久才 秀樹

今はサッシ技術が進んで、少なくなったが、冬の北海道は二重窓がないと暮らしていけない状態であった。中七までの口語の措辞も面白く、冬の蠅がつきすぎと思うひともあるかもしれないが、微妙に私はいいと思う。冬の蠅にとって窓の外側は寒くて危険だし、窓の内側はすぐ人間に叩かれるし、二重窓の中が唯一の安全域なのだ。「冬蜂の死にどころなく歩きけり 村上鬼城」の現代版でもある。


 群青の夜をかきまぜて吹雪けり    幸村 千里                 

中七の「夜をかきまぜて」の措辞、確かに吹雪の措辞としてはあまりないのではと思う。採らなかったひとは「群青」が生きているか否かということだが。群青なので、真夜中ではなく夕方、朝方の夜かもしれないと思われる。こういう句は中七以下で完結しているので、上五の「群青」はぬばたまの と同じように、枕詞的に解釈してもいいのかもしれない。


 

2016年12月9日金曜日

俳句集団【itak】第28回句会評③ (橋本喜夫)


俳句集団【itak】第28回句会評③

  2016年11月12日
 
橋本喜夫(雪華、銀化)
 
 
 背景の消された写真鵙の声    瀬戸優理子


中七までの措辞、やはりフックのある言葉だ。つまり引っかけがある。普通はこの言葉に立ち止まり、何だろうか?と考える。すでに作者の罠にはまっている瞬間だ。人物の写真で背景が消されている場合とは何か?たとえば犯罪や事故があった場合で、背景で場所が特定されてはまずい場合がある。そして人物そのものを浮きたて、背景が無駄になる場合(遺影など)がある。そのほかにもいくつかのケーススタデイができる。そしてそのいずれもが不穏で不吉だ。そして鵙の声という着地につながる。


 老猫や次の初雪までの日々    三品 吏紀


以前も述べたことがあるが上五に季語以外の言葉をもってきて「や」で切るという俳句は昔からあることはあるが、それほど多くはなく今後の俳句の流行にしたいなと思っている。例句としては 頂上や殊に野菊の吹かれをり  原石鼎 がある。しかしなかなか自分ではいい例句ができない。掲句は人気は集まらなかったようだが、切り口として面白い。まず自らが買っている年老いた猫を詠嘆している。つまり作者の詠みたいことは老猫へのいたわり、愛情、いままで過ごしてきた時間の長さなのである。そして中七以下。来年の今ころ、初雪がふるころにはこの年老いた猫はどうなっているのだろうか、この1年間にどんどんダウンヒルに向かい猫が死んでしまうのではなかろうかという恐れである。


 豚汁の深夜食堂冬めける     中田真知子


中七までの措辞、素材。まさに俳句の素材である。豚汁というのは俳諧の世界でないと詩にはならないであろう。寒い時期の豚汁をすするのはこの上ないよろこび。そういう意味で冬の季語選択に賛同する。そこで「冬めける」が最高かどうか は判断が難しい。冬ぬくし だとつきすぎ感。冬に入る、冬はじめは冬めけると同様に悪くない。冬深し だと深夜食堂の深とかぶる感じがするし。。。ん~他人の句に何悩んでるんだろう 私。


 鶏のやうに銀杏拾ふ人       籬   朱子


とってもあっさりあっさり表現されていて、切れ字がなくて、~~~の人。で終わる感じは読む人が読むと平明に見えるが逆に「手練れ感満載」である。おそらく予想した何人かのうちに朱子さんも入っていたが朱子さんとは完全に特定できなかった。なにも句会で誰が作ったか想像するあるいは探索するのは刑事じゃないんだから意味のないことなのだが、そんなことして句会を個人的に楽しんでいる。ただ結果論からいうと朱子さんに近づく証拠は揃っていた。まず比喩に「鳥」を使ったこと。それと~~人 の終わり方。これは銀化の俳人および中原道夫も比較的多い特徴。何やってんだろう 私。鳥がついばむように銀杏を何回も何回も拾う姿が見えてくる佳句である。採るかとらないかはいつも言っているが個人の好みだけである。


 落照の黄金を泳ぐ鴨となる     長谷川忠臣


湖面を大きな入日が照らしており、湖面すべてが黄金いろに染まる。その黄金いろの奥からはじめは一点の影としてみえて、徐々にすべるように抜け出る鳥影、そして近くまできて、鴨とわかった。そんな景である。冬の落照の短い時間的推移と鴨の動きがよくわかる句。


 

2016年12月7日水曜日

俳句集団【itak】第28回句会評② (橋本喜夫)


俳句集団【itak】第28回句会評②

  2016年11月12日
 
橋本喜夫(雪華、銀化)
 
 
 欠席の椅子に冬日の坐りをり     五十嵐秀彦
 

名乗りのあと、康秋さんの追悼句と本人が言っていた。なるほどと思う。井上康秋さん、自らの句集「にんげん」の跋文と序文に、無名の若手?だった私と秀彦さんに依頼してきたすこし強面の、社会派の俳人であった。数年間ファックス句会「てんでん」を主宰して、てんでん通信を発行してくれた。「生きをればあり舌頭も白桃も」は昨年秋のイタック句会だったかな と記憶する。さて掲句いつもの椅子にいつものひとがいない。その椅子に冬の日差しが当たっている。それがいつまでも冬日が移らずに座っているという句である。秀彦俳句にしてはなんら難解なところがない。



 偽果として乳房偽薬として六花    青山 酔鳴


偽果はふつう果実は植物の子房が肥大してなるはずであるが、花床、花軸、ガクなどが肥大してなる果実で、リンゴ、ナシなどは偽果である。これに対して子房の部分だけが受精後発達するのが真果でブドウ、きゅうり、モモなど多い。偽果、偽薬に類比するものをそれぞれ、並列して、対句的に表現している。偽薬(プラセーボ)を六花にもってきたのは飛んでいて面白い。白い雪の結晶あるいは粉雪(パウダースノー)はプラセーボとアナロジーは確かに感じる。六花(つまり花)を使ったことで植物の偽果とも呼応する。


 爪に添う血豆七ミリ秋深し       福井たんぽぽ


中七までの措辞、爪の横にできた7ミリの血豆までの措辞はよかったと思う。座五の「秋深し」の斡旋に問題があったか。季語の選択は私は悪くないと思うが、あまり人気が出なかったのは「秋深し」の置く位置にあると推定する。たとえば「秋深き血豆七ミリ爪に添ふ」とすれば奥行きが出る句になると思うのだが・・・。


 毛糸編む森の小径を行くやうに     内平あとり


毛糸編むという行為をクロスショットで観察すると、編針と編まれた毛糸が絡み合って、じぐざくで、これをロングショットで観ると、森の小径を歩いてゆくようだという見立てが生まれた。毛糸編むという生活の季語どうしても狭い領域に限られたり、心理描写に使われたりが多いが、毛糸編むこと、そのものを比喩にした句は珍しいと思う。


 初雪を人が踏み人々が踏む       鈴木 牛後


初雪が降ってある程度積もった舗道に定点カメラを置いて、一日の推移を早回ししたような景。初雪の句として新しい視点である。新雪でまっさらな雪の上にはじめて人の足跡がつき、ほどなくその足跡をかき消すかのようにつぎつぎと人々が通り過ぎて往き、雪が踏み固められてゆく景である。俳句という形式じゃないと詩にならないことだと思う。


 

2016年12月5日月曜日

俳句集団【itak】第28回句会評① (橋本喜夫)


俳句集団【itak】第28回句会評①

  2016年11月12日
 
橋本喜夫(雪華、銀化)
 
 
今回も50人投句、53人選句の盛況な句会であった。さて早速多くの佳句に触れてゆきましょう。誤読、誤解はご寛恕をお願いします。さくさくとそしてあっさりといきたいな。
 
 
 目つむりて森歩むごと吸入器    室谷安早子

初冬のころ、季節替わりになると、気管支喘息やCOPDなど呼吸器疾患のあるひとにはつらい時期でもある。そんな時期は気管支を広げたり、喀痰を促したりする吸入器は必須のアイテムである。そんな冬の季語をすがすがしい森のマイナスイオンたっぷりの空気を吸ったときと同じようだ と作者は見立てている。吸入器の比喩としても新しい試みの句ではなかろうか。


 手袋の祈る形に置かれたる     幸村 千里

机、あるいは家具の上に脱いだばかりの手袋が置かれる。さっきまで履いていた人のぬくもりがまだ残っている。その手袋が合掌するかたちで、祈りの形である。何気ない日常で、詩情がある。惜しむらくは「祈る形」という措辞は既視感があるが・・・私も地にいただいた。


 毛糸編む餃子包む君の指       高畠 町子

中六の不思議なつくり。逆にこれが魅力なのかもしれない。餃子を包む と無理に中六の破調にしなくても内容からいいたいことはわかる。君だからだれか自分以外の対象がいて、その人が毛糸を編んで、その指で餃子も包んでいるという、ある種愛しさみたいなものを詠んでいるのであろう。二つの行為が違う人物によってなされていると誤解させる危険はある。
そのためにも一案だが、中七は「餃子も包む」にしたらどうだろうか。



 謝ってくれと言えないまま枯野    栗山 麻衣

日常生活、ひとこと謝ってもらえればそれでさっぱり、次の過程にすすめるのに。ということは多々ある。意外にひきずり、さらにそれをはっきり言えない自分にも少しいらついて、傷つく。私は他人に嫌われたくないB型なのでとても共感する。ここでの最後の三文字 ○○○ なんでも付いてくるが、これが微妙に味を出している。たとえば初冬、晩夏だとその季節の状況設定にしかならない。朧だと、なおさら曖昧模糊な気持ちしかでない。やはり荒んだ気持ち、こころのざらついた気持ちは枯野でしょう ということになる。


 のびやかな生命線に置く海鼠    高畠 葉子

海鼠をてのひらに載せているだけの景ではあるが、俳句ならではかもしれぬ。うつうつ状態、泥沼状態、ネガテイブな状態を託してよまれる海鼠で俳諧味のある季語だが、掲句のように生命力にあふれた描き方は珍しいと思う。そういう意味で「のびやかな」の措辞は活きていると思う。