【馬の俳句】
後半は、馬の俳句についてです。
好きな俳句と馬をこじつけて発表させてもらいます。過去の俳人の馬の俳句を拾ってみました。まず江戸時代から。松尾芭蕉です。この人から拾わないと始まりません。
●松尾芭蕉(1644~1694年)
文庫版の「芭蕉俳句集」から馬の俳句を拾ってみたところ、全1190句のうち、馬の句は28句ありました。「馬」そのものを詠んだ句ほか、「馬そり」や「鐙」など馬のイメージのあるものもカウントしました。馬の字が入っていても「ミズスマシ(水馬)」とか「茄子の馬」などはカウントしていません。芭蕉俳句集の馬俳句率は2・3%ありました。
・道のべの木槿は馬にくはれけり
馬って本当に木槿を食べるのかと疑問があったのですが、実際に木槿の咲く季節に花を採って馬の前に差し出したら、写真のようにあっという間に食べてしまいました。感動しました。自分も、芭蕉と同じ感動を味わえたんだなと思いました。
・冬の日や馬上に氷る影法師
芭蕉は馬の上に乗った俳句を作っています。奥の細道の序文にも「舟の上に生涯を浮かべ、馬の口をとらえて老をむかふるものは」というくだりがあります。江戸時代の旅は、徒歩以外の移動手段は舟か馬しかありません。自動車やバス、汽車はない。当たり前ですが、馬がいかに重要なものであったか、われわれは意外とそのことを忘れているのではないでしょうか。
・蚤虱馬の尿する枕もと
「尿(しと)する」を「尿(ばり)こく」とも詠んだらしいですが、添削して「尿(しと)」としている。「しと」のほうが、しっくりくると思います。
●与謝蕪村(1716~1783年)
「蕪村俳句集」からです。蕪村は意外と少なく、この句集では1440句のうち13句、0・9%でした。
・鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな
蕪村は、雅な位の人、やんごとなき人、美しい馬といったものを句に詠んでいます。どうしてこのような句になるのかと考えたときに、蕪村とわずか2歳しか違わない柄井川柳(1718~1790年)という人の存在を思い浮かべました。この人は、江戸で一世を風靡した付け句(川柳)の人。一方、蕪村は上方の文人画家。雅な世界の人です。川柳の大ブームという中で、対抗意識があったのではないかと考えました。蕪村は、川柳を意識しつつ、芭蕉の高貴な「蕉風」を追い求めたのではないかと感じました。
・馬下りて高根のさくら見付けたり
・繋ぎ馬雪一双の鐙かな
馬上の句ではなく、馬から下りた句です。蕪村は馬に乗るのは得意ではなかったのではないかと勝手に邪推しています。2番目の句は、鐙のついている馬ですから、位の高い人の馬を詠んでいる。美しい句だと思います。蕪村の絵のような句です。
●小林一茶(1763~1827年)
一茶は、蕪村から約50年ほど後に生まれた人です。「一茶俳句集」の2000句のうち44句ありました。馬俳句率は2・2%です。芭蕉と同じくらいですが、この時代の俳人の句には、だいたい2~3%くらい馬の句があるように感じています。
・馬の子の故郷はなるゝ秋の雨
一茶も故郷をはなれて名を挙げようとしたが大変だった。馬に自分の気持ちを入れ込んだような感じもします。
・雀の子そこのけそこのけ御馬が通る
有名な句です。一茶は馬も多く詠んでいますが、それよりも蛙とか雀の句が多く、馬の2、3倍はあります。
・じっとして馬に嗅るゝ蛙哉
・赤馬の鼻で吹けり雀の子
馬の句ではないですが、有名な「痩せ蛙負けるな一茶ここにあり」など、一茶は、蛙や雀など小さい生き物をあわれむ。逆に馬は強いモノの象徴になります。例えば・・・
・武士(さむらい)に蠅を追する御馬哉
・馬迄も萌黄の蚊帳に寝たりけり
馬は一茶にとって強いものの象徴のような気がします。反骨精神のあった俳人ですが、馬はその反骨精神をぶつける対象だったようです。
・首出して稲付馬の通りけり
・馬のくび曲らぬ程の稲穂哉
稲付馬とは、稲を運ぶ馬。江戸時代の馬の大きさが想像できます。ばん馬やサラブレッドのような大きな馬は、いくら稲を積んでも首を曲がるほどになりません。当時の農村の馬はポニーくらいの大きさの馬を使っていたと想像できます。
●正岡子規(1867~1902年)
明治時代はまずこの人です。「子規句集」の中の(2306句)のうち馬の句は、39句、1・7%でした。
・徴発の馬つゞきけり年の市
明治28年(1895年)の句です。徴発とは軍事用に人や馬などを集めること。にぎやかな年の瀬に軍馬がものものしく通ったという句です。明治27年(1894年)に日清戦争が起こり、子規は翌年、従軍記者として朝鮮に渡りますが、船の中で喀血し、体を壊します。帰国後から闘病生活が始まります。
・馬車(うまぐるま)店先ふさぐあつさ哉
馬車の句は、江戸時代にはあまり見当たりません。日本は山国なので、馬車はあまり重宝しない。馬は、背中に荷物を載せて、使役に使われることが多かったと思います。明治時代になると西洋文化の影響もあり、ようやく馬車が出てくる。子規は馬のフン、馬糞の句もよく詠んでいます。
・初午や土手は行来の馬の糞
・馬糞(うまくそ)をはなれて石に秋の蠅
・馬糞に息つく秋の胡蝶かな
子規らしい写実的な面白い句だと思います。ちなみに、馬の俳句(39句)のうち馬糞俳句率は7・6%なります。馬糞の句は蕪村、一茶にもあります。
・紅梅の落花燃らむ馬の糞(蕪村)
・どかどかと花の上なる馬ふん哉(一茶)
さすがに蕪村の手にかかると、こんなにきれいな馬糞になる。いっぽう一茶は、どかどかと花の上に落ちる馬糞ですから。強い者の象徴として馬を詠む、馬が憎けりゃ馬糞まで憎いという感じ。
●高浜虚子(1874~1959年)
虚子です。2冊ある「5句集」(上、下)からの3050句にうち13句しかありませんでした。0・4%。非常に少ない。虚子は馬の句はあまり詠んでいないんですね。なぜかと不思議に思ったのですが、その理由のヒントになるのが、虚子が明治43年、37歳、まだ小説を書いていたころですが、鉄道院の嘱託になっていることです。鉄道の文章、旅行記なども書いて稼いでいたらしい。「知られざる虚子」(栗林圭魚)という本に書いてありました。鉄道と虚子が関係深いのは、昭和になって満州鉄道であちこち行っていることとも関係があるかもしれません。
・駒の鼻ふくれて動く泉かな
馬が泉で水を飲んでいる。写生と省略の効いたさすが虚子という句ですね。
・牛も馬も人も橋下に野の夕立
虚子の少ない馬の句から拾わせてもらいましたが、虚子は鉄道と関係の深い人でした。鉄道は明治から時代から急速に発達し、馬の活躍の場をどんどん奪っていった。鉄道と馬は、相対するものでした。虛子は鉄道側の人だったのではないかというのが、僕の勝手な推測です。
●河東碧梧桐(1873~1937年)
虚子と双璧をなす碧梧桐は、2000句(碧梧桐句集)のうち42句、2・1%ありました。
・種馬につけにやりけり春の雨
・馬売れて牛に別れや牧小春
・馬斃れし跡掃く水や火蛾の飛ぶ
・秋風や去勢せし馬といふを見る
・馬の艶々しさが枯芝に丸出しになってゐる
種付したり、去勢したり、売れたり、死んだり。ぼくの仕事と共通点があります。「豆作の句はいろいろな馬の句があって面白い」なんて言われて得意になっていましたが、実はそういう句は碧梧桐が、新傾向俳句集の中でとっくの昔にたくさん詠んでいる。碧梧桐の馬の句の多さを見せつけられたときは、愕然としました。殴られた気分でした。碧梧桐に全部やられてしまっているなと。
●村上鬼城(1865~1938年)
・痩馬のあはれ機嫌や秋高し
・後の月を寒がる馬に戸ざしけり
「鬼城句集」の1063句中には32句、3・0%ありました。鬼城はぼくの大好きな作家の一人ですが、その中でも「痩馬の~」は一番好きな句です。この馬は、何か事情があって痩せているのでしょう。天高く馬肥ゆる秋といえば、周りの馬は皆健康で太っている。そんな中で痩馬がふてくされることもなく、痩馬なりに周りに合わせて機嫌良く振る舞っている。それが「あわれ」であると鬼城は詠んでいる。僕の仕事でもそういう馬がいます。鬼城はそれを見事に捉えており、ぐっときますね。「後の月~」では、寒がっている馬のために戸を閉めてやる。やさしいですよね。
●鮫島交魚子(さめじま・こうぎょし、1888~1980年)
北海道にゆかりのある俳人も紹介します。鮫島交魚子は、北海道のホトトギスの重鎮の方です。句集「花栗」の961句のうち馬の俳句は28句、2・9%。大正8年、小樽商大生だった高浜年尾が丹毒で入院したときの小樽病院の外科医長さんでした。その後ホトトギスに投句を始めました。北海道俳句協会を結成した初代会長さんでもあります。
・短日の門に溜りぬ患者橇
「患者橇」、昔の患者はそりで病院に来ていたんですね。今で言えばさしずめ、病院の駐車場。このころは橇と馬が病院の前に居たんですね。そういうことを想像させてくれる句です。
・駅の灯へ急ぐ幌馬車駆りにけり
・炬燵橇仕立てて街に買物へ
炬燵橇とは面白いですね。交魚子さんの句からは(当時の)生活が分かります。
・山と積む大根に腰馬を馭す
・供米や駅員も出て橇荷役
・水を飲む耕馬の手綱守る童
・椴丸太積んで下山の馬橇かな
馬との生活、主に馬橇などを彷彿とさせる句です。
●細谷源二(1906~1970年)
「細谷源二全集」の1293句中、50句、3・9%でした。結社「氷原帯」の初代主宰、現代俳句系の人で、すごい句を詠む方です。
・赤き馬百尺の崖撃たれ墜ち
馬の毛色は、黒を青馬といい、茶色を赤毛馬といいます。赤き馬とは茶色馬のことです。
・野戦重砲兵馬臭くして目が可憐
・灼けたおれる馬を徒弟ら重なり見る
戦争の風景かと思います。壮絶です。昭和16年、プロレタリアの新興俳句弾圧事件で細谷源二さんは投獄されます。先日、「氷原帯」の現主宰、山陰進さんにお話しを伺ったのですが、あのころの特高は無茶苦茶だったといいます。ちょっとでも俳句がプロレタリア文芸だと見做すと、すぐにしょっぴかれた。赤という文字あったらもう共産党だといってダメ。赤、という言葉さえ使いづらい状態。源二さんは、昭和20年に東京の空襲で家も職場も焼けてしまって、十勝の豊頃(とよころ)町に入植しました。30半ばから豊頃で開拓農をしましたが、結局2年で挫折します。
・耕馬ゆえだんだん強く打たれたる
・びしびしと馬打つそばに仔がおれど
・涙を流がす馬をつれて来て買えと云えり
・馬の心農になく雨にあるらしき
・夏荒寥と火をたく病馬温めるらし
・荷馬夫等が屍を焼く蓬原
過酷な開拓時代はすごいですね。その後、砂川市に来ます。生活は安定しましたが、俳句はゆるんだかなと思います。
・きたぐにのぶらぶらしている代赭な馬
・氷原無情馬に旗なし犬に旗なし
・馬景をすぎ牛景はさむし髪きってきて
・叱られる馬だが薄にもらった尾が自慢
「代赭(たいしゃ)」は褐色の馬のことです。(砂川時代の句は)何かぱっとしませんね。やはり豊頃時代がいいですね。
●金子兜太(1919年~)
「95歳の自選100句」から。100句中3句の3%でした。
・木曽のなあ木曽の炭馬並び糞る
・霧の夜の吾が身に近く馬歩む
・馬遠し藻で陰(ほと)洗う幼な妻
調べる時間がなくなって、自選集100句で勘弁してもらいました。でも才能の塊のような兜太さんらしい句が並びますね。
●稲畑汀子(1931年~)
「稲畑汀子 自選三百句」から300句中2句、0・7%。
・避暑の娘に馬よボートよピンポンよ
・海霧ときに馬柵より低く流れゐし
女性を代表して登場してもらいました。汀子先生の句集はいっぱいありますが、たまたま選んだ句集です。自選300句の中からです。馬の俳句率0・7%、虚子よりちょっと多いくらいです。
馬がボート、ピンポンと同列になっています。レジャーですね。現代の女性が見た馬。汀子先生は、自然や人のあるがままをさらりと詠む方です。現代のわれわれにとって、馬とはこういうものでしかないということなのでしょうか。
●鈴木八駛郎(すずき・やしろう、1925年~)
・生還や仔づれの馬と巡りあう
十勝の俳人の重鎮です。この方はヤバイです。何と「馬」という句集を作ってしまいました。102句のうち全部が馬の句で、100%。手に入れようとしたのですが図書館では持ち出し禁止でした。先日、八駛郎さんにお会いしたら、なんと「もう一つ、馬の句集を出すよ!」と言っていました。みなさん、ぜひ期待して下さい。「生還や~」は、軍馬ばかりの兵役から帰り、子連れの馬を見てほっとしたという感じでしょうか。句集の冒頭に出てくる句です。なるほどなあと思います。
・馬を撲つ荒声に萩ほろろ散る
・干菜の湯せりせりと飲む風邪の馬
・胎み馬の腹拭く藁を温める
・駅前の通りに凍る馬の糞
馬が大好きな方だと分かります。ぼくも馬の句をいろいろ詠んでいますが、八駛郎さんにはとてもかなわないと思います。
・父と馬ねむる母屋の麦熟るる
・霧にいなおり馬ゆきすきし父を呼ぶ
・売れぬ馬曵き戻る父酒くさし
・盆過ぎて馬具をつくろう父老ゆる
・馬臭き晩夏の家で粥煮る母
八駛郎さんのお父さんと馬の絆を詠んでいます。十勝開拓の馬の姿がよく分かる句です。ただ、馬も次第にトラクターにとって変わります。
・耕馬減りガソリン臭き村の畑
・馬殺し十勝原野に牛を見し
・屠場の馬正午におらず赤まんま
・春しぐれ牛が見ている馬の墓
・馬臭き家壊さるる野は晩夏
30年代にはこういう句になってきます。十勝でもこうですから、石狩や旭川、北見、オホーツクでもそうでしょう。農村風景から馬が消え、ガソリンや牛にとって変わって現在に至ります。
●五十嵐秀彦(1956年~)
おまけですが、(itak代表の)五十嵐さんの「無量」からも調べてみましたが、300句うち残念ながら、馬の句は0句でした(笑)。
(了)
☆抄録:久才秀樹(きゅうさい・ひでき) 北舟句会
0 件のコメント:
コメントを投稿