俳句集団【itak】第6回句会評
2013年3月9日
橋本喜夫(雪華、銀化)
第6回も佐々木美智子さんという素晴らしい方をお迎えして、盛会に終わってよかったなと思う。
2か月に1回のこの会も無事1周年を迎えられそうで、やれやれというところか。句会の進行も、今回から選句表を集合させて、まとめて読み上げる方式になり、スムーズになったと思う(自画自賛だったが、懇親会で少し、読み上げるのが早すぎて、点盛りが大変だったという指摘もあった)。
句会評も何回か続き、読む方も、書く方も少し飽きがきてると思うので、今回は何かに絞って書いてみたい。今回は句評の時私がよく使う「フックの効いた言葉」に注目して句評をしてみたい。要するにひっかかりのある言葉、よく言えば詩的共鳴箱を共鳴させられた言葉、???と思った言葉、要するにアトラクテイブな言葉であろうか。
ボサノヴァに面影浮かぶ日永かな 小笠原かほる
ブラジルで生まれた新しい感覚のサンバ、リズム。この句会の前に美智子さんのブラジルの写真を見ていたからか、ひっかかった。もともとこの音楽には詳しくないが、面影というとラテン系の肉感的な女性のシルエットが思い浮かぶ。
あまり、点が入らなかったのは日永との兼ね合いか?ぎらぎらした太陽の方がよかったのか?
春分や時の等しさ愛しけり 村元幸明
春分で、時が等しい、言わずもがななのではあるが、これをわざわざ詠んだひとはいなかった。昼の時間、夜の時間が等しいことを作者は愛しているというのだ。わかるようで、わからない、解せないからひっかかるのだ。もともと時間というものを俳句で詠むのは難しいと、かの山本健吉は言っているが、私はそうは思っていない。春分という時候の一日を愛しているわけだはなく、時が等しいだけを愛しているわけであり、アンビバレンスな可笑しさもある。ちなみに上五は「や」でなく、「の」にすべきであろう。
啓蟄のしんがりにホモサピエンス 籬 朱子
高点句であった。言葉としてのフックはどこにもない。すんなり入ってくる。すんなり入ってくる句が悪いとは言っていない。ただ意味が分からない句と意味が分かる句どっちをとるかというと、意味が分からない句を採る方が多いかもしれない。「しんがりに猫」の加藤楸邨の句もあったが、それ以上にいい意味で知的操作が付加された句だ。意味は誰でもわかるであろう。啓蟄という季語の例句で、人間を虫たちと同格に扱った句はなかったと思う。
春寒や臼歯に銀の被せ物 今田かをり
アマルガムをまっこうから詠んだ句はあまりないのではないかと思う。しかも銀という質感が、春寒とよくマッチしているかと思う。この句で言うフックのある言葉は、「銀の被せ物」だろう。寒々とした質感もあり、何のことを言っているかよくわかる。使っている言葉に一つも詩的なものはない。それでいて春寒感が伝わる。
微熱あるのよ桜餅が寝ている 柏田末子
フックが効いた表現と言えば、口語表現もあろう。ただしそれも文語の海のなかに浮いている氷山であるから、フックが効くだけであって、それのみでは俳句として屹立させるのは難しい。この句は「微熱あるのよ」もけっこうキャッチな表現だが、つながる桜餅が寝ているがうまいのである。桜餅の桜の葉っぱが、枕カバーのように思えてきた。
ため息の重さを笑え花ミモザ 後藤あるま
中七までのフレーズたしかに、フックが効いている。ここまで来たら下五の季語を何を取り合わせるかである。私は有名な「花や植物の季語が苦手俳人」なので、取れなかった。花に詳しい籬 朱子氏が採っているので的確な季語だったのであろう。
春愁的なため息を笑い飛ばせ、という発想がとにかくよい。中島みゆき的だ。
女来てゆたかに占める春の椅子 五十嵐秀彦
「春の○○」という表現は春の水などと違い、邪道な季語であるという人がいる。有名な俳人(特に俳人協会系)でもたくさんいる。そんなことはどうでもいいでしょうと思う。季語をそもそも一級季語、二流季語として分けること自体が、俳句や俳壇を心が狭いギルド的にしてしまう。この椅子に春夏秋冬あてはめてみると、春が一番よいことがわかる。そしてこの俳句の場面のような豊かなおばさんはごまんといる。ここでは「ゆたか」にフックが効いている。皮肉である。そしてここにも肉がある。
ホワイトアウト今痛きほど空の青 久保田哲子
使いたい言葉、時事的な言葉を詠みたいと思っても力量がいる。なかなか俳句的なものは作れても、今日考えられるほんものの俳句にはならない。この句はよくできていると思う。文句を言わせてもらえばやはり「今」だろうか。これが、詩を弱めているのだと思う。どうすればいいか私もわからない。まだ「けさ」とか「けふ」とか限定した方がよさそうにも思う。
雪解けや八艘飛びのランドセル 大原智也
よく景が見えて、かわいらしい句ではある。八艘飛びがフックのあることばなのだが、この景を詠むのにこの言葉が適しているのかどうかは疑問だ。つまりこの場合私には逆向きのベクトルが働くフックになってしまった。もっとかわいらしく、フックの効いた比喩がないかと代案を考えたが、出ない。3点入っているので、採ったひとたちは八艘飛び→義経の八艘飛び→子供の春泥を飛び越えるさま、と矛盾なく連想できたのであろう。詠んでいる景はとてもいい。八艘飛びをどのように感じるかが、読者により違いが生じるであろう。
鍵穴が古墳のようだ万愚節 内平あとり
中七までの口語体の言葉にフックを感じた。私の息子は小学校のころ大事な塾の進級試験で、前方後円墳を鍵穴古墳と答えて試験に落ちたことを思い出す。このようにフックの効いたフレーズが生まれればあとはどのような季語と組み合わせるかだけが勝負である。そういう意味では俳句も少しメカニックなところがあると思う。もちろん、ことばの組合せ、融合だけでなく、詩であって欲しいし、韻文性のある詩歌にほかならないという考えもあると思う。
さてこの句万愚節は最適がどうかは私にもわからない。悪くないと思う。なぜなら、万愚節はいささか俳諧の方へ傾斜する趣の季語であるが、その名の通り万の句に合わせられる季語である。
校庭の鎖のかをり凍ゆるむ 久才透子
凍てという感覚の季語をかをりという嗅覚に変換したところがいいであろう。たとえばぶらんこの鎖。たしかに長い冬のあと、少し錆びついた、なつかしい匂いを発する。凍ゆるむ、という季語も、北海道らしい感覚と思う。鎖のかをりというフックの効いた言葉を利用するなら、卒業す、あたりの季語でも面白いかもしれない。
言葉に重奏性が出てきて。輪郭をはっきり表現したい場合はこの句でいいであろう。
春光にへらりへらりと離職票 高畠葉子
オノマトペにフックを効かせるのは難しいが、このへらりへらりは効いていると思う。わたしは下五の離職票なるものの輪郭が結べなかった。どんな用紙なのか、へらりへらりなので、うすっぺらい紙なのであろうが・・・比喩や用言は重奏性を好むが名詞というか、「もの」を表現するときは私の場合イメージが湧かないと取れない。
春光やへらりへらりと失職す、ではだめか、と思ってしまう。
春浅し産湯のごとき母を抱く 村元幸明
このような「母もの俳句」は好き嫌いが分かれるが、私は母がつくとすぐ採ってしまう癖があった。はじめの5年間くらいであろうか。最近は「母もの俳句」には厳しい。なるべく採らないようにしている。この句のフックは実は「産湯のごとき母」だと思う。ごとく、ではないのだ。ごとくであれば意味は採りやすい。産湯につけるようにして母を抱く、というふうに動作に産湯という比喩がかかってくる。ところがこの比喩は母にかかっている。つまり産湯のような体温を持つ母なのか、産湯のような軽さの母なのか、にわかに重奏性を帯びてくる。ごとく、だと意味は明確だがフックがないと思う。ふつうの母恋の句だと思う。
考えることをやめたら春がくる 恵本俊文
フックの効いた言葉はひとつもない。この句は十七文字すべての内容にフックがあるわけだ。人間冬の間うつうつものを考える、それをやめれば春が来るというフックの効いた断定である。これも口語句なので全体としてフックを効かせている。私が印をつけたが、天に採らなかったのはおそらく韻文性に乏しいと感じたからにほかならない。たとえば内容は反対になるが、考えることをやめたる寒さかな、のような。内容には文句はない。俳句って内容に申し分なくても採れないことってあるよね。韻文だから口に出して気持ちよくならないと・・・
目刺焼く人生が二度あるごとく 五十嵐秀彦
井上陽水のうたに出てくるベタな、使い古されたフレーズしかし、口誦性のあるフレーズに説教くさい、教訓くさい季語であればノーサンキューであるが、目刺焼く、と置いたところが手柄であろう。季語そのものがフックがあるのである。考えれば考えるほどばかばかしいくらいに、謎めいてくる。人生が二度楽しめるのになぜ目刺焼くのだろうか?とか一度目は目刺焼かなかったのだろうか?とかそんなばかげた妄想したりして、完全にひっかかった。フックは「鉤」であるから当然、「罠」にもなる。
朝まだきうぐいす来たは幻聴か 佐々木美智子
夜まだ明けきらぬ早朝、つまり春暁である。夢ともうつつともつかぬ寝床で作者はうぐいすの声を聴いたのであろう。それは確かなものだっかかもしれないが、何せ作者も夢の中で聞いたので、確たる証拠がない。そこで幻聴か、と下五に置いた。
この幻聴か、の疑問形がフックが効いている。あまり俳句を作ったことないひとかなとは思った。まず幻聴などという言葉は使わない。しかし朝まだき、というやはり短歌などに使われる雅語も入っている。初うぐいすの声を聴いた喜びが、「幻聴か」という素直な表現に十二分に表現されている。
桃の日は細身の魚買ひにけり 久保田哲子
北海道の雛祭りは季節的にはまだ寒く、春寒という感じで、桃の節句からは程遠い感覚だ。そこにさよりなど細身のしかも白身の魚を買った。ただそれだけではあるが、季感としてこの取り合わせの適切さを思う。フックのある言葉はない。十七文字すべてがフックの効いた内容になっている。
遠雪崩夜汽車のやうな父とゐて 今田かをり
夜汽車を比喩に使う、これもある程度フックは効いている。夜汽車のイメージで、なつかしきもの、恋しいもの、ふるさとを感じるものとして父、母に用いることはありうると思う。心があたたまる感じもする。だが私がこの句を頂いたのは遠雪崩の季語の選択である。つまり遠からず来るであろう危惧、たとえば父の身に何かが起こること、もしくは自分を含めて家族の身に何かが起こること。立子が雛の日にふと自分の死を思ったような感覚である。心底やすらげるものに浸っているときこそ、いつか来る遠雪崩を思うという感覚を私は肯定する。こういう感覚はネガテイブとは言わない。少なくても平和ボケしていないのだ。
なまら鳴るムックリの音春兆す 早川純子
これはどう見ても「なまら鳴る」でしょう。この句のフックはこれしかない。中七まで笑えるのだから、春兆すなんてなまぬるい季語にしてほしくなかった。「亀も鳴く」とか持ってきてふざけて欲しかった。以前この欄でふざけ過ぎの句を難じたこともあったが、春兆すだと逆向きのベクトルが働いている感じだ。
春待つやamazonで買ふ「蜘蛛の糸」 岩本 碇
アマゾンで買う句は一度作りたかった。いつ作るか、今でしょう。と思うが、先にやられたと思った。だからこの句に印はつけた。しかしなぜ天、地、人に漏れたか。
ひとえに「蜘蛛の糸」がだめだと思った。これ何を持ってくるかで決まると思う。
「阿部一族」みたいないい本の題名さえあればよい句になる。
優しさに慣れずにひとり雛納め 佐々木成緒子
「優しさに慣れず」は女性のナルシシズムもよく出ていてフックのある言葉と思う。印もつけたが、なぜ最後は採れなかったかというと。「ひとり」が説明的と思ったから。優しさに慣れずに雛を納めけり、でもよいのではと思ってしまった。前半で孤独なナルシシズムが伝わったのであるから、あとは単純でいいというのが私の俳句に対する考えです。
以上今回も言いたい放題です。言いたい放題がいやな方はどうかこの欄から私を外してください。助けてくださいと紙飛行機に書いて窓から飛ばしたい心境です。
これイタックに対する不満ではありません。あしからず。
※助けてあげません!来月もよろしくお願いいたします(^^ by事務局(J)
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