2013年1月23日水曜日

俳句集団【itak】第5回句会評 (橋本喜夫)

俳句集団【itak】第5回句会評


2013年1月12日



橋本喜夫(雪華、銀化)
 
112日第五回イタック句会が行われた。正月で何かと多忙な時期であり、参加人数の減少が心配されたが、50人以上の方が参加され盛況であった。高校生が受験時期でもあり、参加できなかったのは残念であったが。今回は私は講演をさせてもらうので、久しぶりに初心の頃の入門書を読んだ。特に石原八束の「俳句の作り方」は久しぶりに読んでも新鮮な感銘を受けた。一文を紹介しよう。「要するに人間の心機にかかわることに新しいも古いもない。抒情とはいわば涙のようなものと考えておきたい。妻子を失った悲しみの涙にも、失恋の涙にも古い新しいはあるまい。涙のない人生など文学詩歌の対象になるまいから、泣き笑いの人生が俳諧の世界だとすると、抒情はその涙と考えても少しもおかしくはない(抒情に古いも新しいもない)。」
さてさっそく句会評を始めたい。相変わらず、好き勝手に書くが、「誤読は俳諧の花」と私は考えているので、どうか御寛恕を。またまた高点句の中には事情があって、紹介できない句がたくさんあることを御理解下さい。


ゆりかごに揺られ眠る子流氷来   久才秀樹
 
一読、構成がうまくできている句である。たとえば、「温感」、暖かい室内でゆるやかに揺れながら眠る嬰児の暖かさと、外から聞こえてくる流氷群の寒さ、厳しさ。この対称がよい。たとえば動と静の対称、生と死の対称。中七を名詞止めにして、座五を流氷来という述語的な終わり方をしなかったのも佳い。ゆりかごに揺られるという形と、流氷が大海に浮かぶという全く似ていないようで似ているシノニム性も大変に技巧的な構成。典型的なうまい取り合わせ、二物衝撃といってよい。


大寒の指をこぼれる鍵の束     籬 朱子
 
大寒の季語の感覚からいって、金属的、冷たさが前面に出る鍵の束は組み合わせから言って、考えうる、よくある組み合わせと言ってよいかもしれない。しかし、その二つの事物を「指をこぼれる」という中七で繋いでいる。ここがリアルである。今年の北海道の身を切るような寒さが、「指をこぼれる」という措辞で十二分に伝わるではないか。


冬ひとりわがまま許されぬ轍    恵本俊文

 
魅力的な句だ。中七から座五への句またがりも、魅力を倍増させている。勿論冬の道は「轍」があれば、わがまま運転は大事故=死に直結する。しかし、轍にはいろいろな意味がある、「人生の轍」「夢の轍」などとも使われる。わざわざ「冬ひとり」という措辞が孤独感を描出している。どこで意味の切れ(スリット)を入れて読むかで、面白みが変わってくる句だ。私はわがまま許されぬ で切れをいれたい。最後に吐き捨てるように「轍」と措辞が続く。

人の日の人にはひとつづつ人体   鈴木牛後
 
何も言っているわけではない。人を畳みかけたことと、H音を4回畳みかけて音調の佳さ。人にはひとつづつ人体があるというごく当たり前のことを人の日と合体させた。そして最後に「じんたい」と読ませ、裏切る感覚を呼ぶ。これで十分詩が生まれる。俳句ならではの詩である。



年はじめヒートテックを買いあさる 丸田ひとみ

    
面白い。年初めというめでたい季語を中七以下で見事に裏切る。今年の寒さ、特に正月の寒さは生きるためだけに懸命になってしまう。ヒートテックという新しい言葉を使っていても「買いあさる」という措辞がリアルで、ヒートテックが決して浮いていない。


雪をんな齢を訊いて仕舞ひけり   滝谷泰星

雪女の句は意外と難しく、空想句的に流れてしまったり、眞鍋某氏のようにエロテイックに流れてしまったりして、意外とこの季語の象徴性の強さからパターンに嵌ってしまいがちである。この句は雪女にうっかり年齢を聞いてしまったというとぼけた諧謔がある。あまりにいい女だったからか、年齢を聞いてしまった。実はこの雪女、年齢を訊いたが最後、化け物に変身して男は喰われてしまうかもしれないのだ。この後の展開もいろいろと想像を巡らせると面白い。「仕舞けり」にその男の少しの後悔があり、それも面白い。


流氷や門に傾れゆく陽のかけら   熊谷陽一
 
この句のバックには「流氷や宗谷の門波荒れやまず  山口誓子」が感じられる。門は戸波と同様に宗谷海峡を示している、つまり海峡の狭くなった場所を示す。したがってひしひしと迫ってくる流氷群が海峡に傾れゆくように集まりゆく。そこに太陽の光があつまりきらきらきらめいている景だ。つまり海峡に集まりくる流氷群を俯瞰的に見る大景から一挙に光のかけら、つまりカメラアングルはクロスショットに切り替わり、氷に当たってきらめく光を表現している。佳句である。


この空も昨日のつづき毛糸編む   山田美和子
いかのぼりきのふの空のありどころ のように時の連続性、時の不可思議性をいかのぼりが繋げているのと同じで、この句は昨日も今日も毛糸編むという行為が、時間の連続性を不思議な感覚で繋げている。中七の 昨日のつづき が不可思議性と二つの事項の繋がりを分かりやすくしている。「この空も」の「も」も意外と効果を上げているのだ。毛糸編むという無心の行為がもしかしたタイムスリップを起こしたかもしれぬ。



楪を飾れり誰の晩年に       五十嵐秀彦

新年の季語なので、めでたいばかりかというとそうでもない。「ゆずりは」は「ゆずる葉」、「譲り葉」からわかるように、新葉が開いてから古葉が落ちるので、子孫繁栄の縁起ものである。よく考えてみるとそこには「死」が内包されているのだ。つまり縁起の悪いものも含まれている。だから晩年という言葉はけっして浮いていない。この句は逆に「真っ直ぐな句」なのである。そしてこの作者が真っ直ぐな句を作ったということに「新年のめでたさ」がはずかしそうに隠れているのだ。



寒晴れや鳥に翼のあるふしぎ    柏田末子

 
「鳥に翼のあるふしぎ」は措辞として平凡で、よくある言葉かもしれない。しかし、寒晴れと取り合わせるとにわかに、生き生きしてくるから不思議だ。やはり言葉の化学反応とでも言おうか。気持ちが良いくらい晴れ渡り、しかも凛として寒い寒ばれの空を鳥が止まっているかのように泳いでいる。まるで泳いで見えるのに実際は羽を一生懸命広げ、羽ばたくことで気流に乗っているのであろう。そこで中七以下の措辞が生きてくる。やはり「不思議」なのである。

世知辛き世を煮含めるおでんかな  栗山麻衣

一見、見過ごしてしまうような句である。「世知辛き世」「おでん」などなんとなく繋がりとしては予定調和のような感じだ。しかしこの句は「煮含める」である。「煮詰めたる」ではないのだ。世知辛い世にも関わらず、おでんは材料のすみずみまで味がしみ込んでいるのだ。このありがたさ、生きて食べられる有難さ。「おでん」 という季語に作者は「世の中はまだ捨てたものでない」と、読み取っているのである。しかも世知辛い世の中までも煮含めて(味を沁みこませて)いるわけである。つまり深いのである。そしてポジテイブなのである。


小春日の水切りカゴに立つナイフ  瀬戸優理子

小春日、水切り籠、その材料はすべてのどか、あたたか、ゆったり感が伝わる。ところがそこに屹立するナイフ。ここで雰囲気は一転する。そして一転してそのままナイフを読者に投げ出したまま終了する。不完全感、気味の悪さが残る。これが作者の作戦であり、俳句ではよくつかわれることではある。ある意味俳句の特徴をうまく利用している。ハードボイルド俳句と私は名づけている。


暁闇を行く除雪車の孤高かな    戸田幸四郎

今年ほど、除雪の悪さを市民が怒っている年もないであろう。絶対必要であるものを予算切り詰めという名目で、けちったために失敗する市政は嘲笑するしかないが、暁闇にひとり懸命に除雪車を繰るひとたちには何の罪もない。いやむしろ神がかって見えたりすることもある。読む句材として除雪車を孤高と表現した作者のビビットな感性に敬服する。
 

月光の道を狐よ振り向くな     内平あとり

冷たい月の光に照らされた道、いや道なき道を狐が歩き去ってゆく。その後ろ姿、光る豊かな尻尾を見つめつつ、作者は安寧な気持ちに浸っている。できたらこのままこちらを振り返らないでほしい、もし振り向けばこの時間が終わってしまう。いや、この安寧な時間が終了してしまう感覚に囚われたのではないか。逆説的に振り向いてほしいという気持ちも見え隠れするのである。このアンビバレンスな感覚がよい。俳句というよりも詩の一連のような趣がある。



雪晴れて遠く危ふく大都会     井上康秋
 
佳き句というのは、その後の未来を予見する趣があると言われる。この句の提出の翌翌日の114日に東京は何十年ぶりかの大雪に襲われ、都市機能は完全にマヒした。毎日の生活に潜んでいる危うさ。大都会の危うさ。まさにこの句はそれを予言している。



碁会所を出づそれぞれの冬帽子   戸田幸四郎

碁会所を出入りするのは老人が多く、老人は冬帽子をかぶることが多い。そういう意味ではあたりまえ、そのままの表現。ところがこの句の佳さはひたすら「それぞれの」の措辞のよろしさである。その昔のアリスの「それぞれの秋」のように。この措辞のおかげで、碁会所というひとところに集まる高齢者の「それぞれの人生」を伺わせる。「それぞれの冬帽子」の止めもすわりが良い。技巧的な句である。



その白鳥洗い直して帰そうか    籬 朱子

まず「帰そうか」という疑問形で終わるフォルムの佳さ。白鳥の句は美しさや、格調高い句を詠むパターンが多いが、それを裏切り、近くでみたら汚いことに焦点を合わせて、逆に洗って帰すという諧謔。この句北海道に4人しかいない銀化会員の3人が選句してしまった。そして作者も銀化。私たちの結社みなばらばらだと思っていたが、このような選句が一致するというのは何となく結束感が湧いてきて嬉しいような、気恥ずかしいような。。。。メモリアルな句ではある。

現世に首傾げたる雪達磨      岩本 碇

首傾げる偶像の句としては、仏や地蔵の句が多い。あまり雪達磨に関しては見たことがない。だいだいはじめから首がないことが多い。うつしよに首を傾げる という措辞がやはり、何かいいたげで、意味ありげで、読者には刺さってくる。アトラクテイブな措辞である。

ゆつくりとミスを重ねる初仕事   小張久美
 
一読とても面白い。初仕事であるから、ゆつくりという感覚が合う。しかもミスを重ねるわけである。このような毒のある句が好きだ。急いでミスを重ねるより、考えてみればたちがわるい。だからこそ面白い。そして反省も感じられない。悪びれてもいない。これも気持ちが良い。すべて初仕事が赦してくれる。正月からこのような毒のある句が大好きだ。
 
初夢や蛇とまぐわることもあり   高畠葉子

これも毒である。強烈である。初夢に干支の夢をみることはよいと言えるが、よりによって蛇年に蛇と抱き合っている。まぐわっている。「まぐはふ」 が正しいのでは。まあ、文法はどうでもよい。そういえばよく倒錯の顔をして、大蛇にからまれている美女の図を見たことがあるが。。。思い切った、そして毒のある句詠むべしと思う。特に初夢などという縁起のよい季語の逆手を取ることも大事である。この句のように。

 
口切りにフブキノトシノアケと記す kai

 
「口切り」 という措辞に少し謎がある。「物事の始まり」という意味なのか、新年の「新茶の茶会」なのか、「密封の容器の口を開いてた」のか。どれでもよいのかもしれぬ。私は重層的な意味としてとらえた方が良いと思う、つまりもののはじまりとして、そして何かの容器の口のところに以下の言葉を記入したのではないか。新しい日記の口切に記したのかもしれぬ。暗号のような、呪文のような「フブキノトシノアケ」が結構アトラクテイブに効いている。カタカナ表記も呪文めいていて成功している。
以上、今回の句会評を終了する。粗雑な文章で大変恐縮だが、本句会評は速さが唯一の取り柄である(自分で言うか?!)。



 

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