「寺山修司俳句の解剖学」
2017年1月14日 俳句集団【itak】講演
五十嵐秀彦
Q1 寺山修司って何者?
寺山のプロフィールは実に多彩です。
俳人、歌人、詩人、小説家、劇作家、作詞家、映画監督、競馬評論家etc、一人でいくつもの肩書きを持っていました。
Wikipediaを見ると「言葉の錬金術師」「アングラ演劇四天王のひとり」「昭和の啄木」「覗き見マニア」「エロスのアナキスト」「政治嫌いの革命家」「ジャンルを超えたコラージュの達人」「あしたのジョーを愛した男」「三島由紀夫のライバル」「生まれながらのトリック・スター」「サブ・カルチャーの先駆者」など、私も知らない呼び名もこの中にはあります。死後なお新たな呼び名を獲得しているということに驚かされます。
彼の人気はいまなお衰えていない。
衰えないということは常に新しいファンが生まれているということでしょう。
今も彼の名前が出てくる例をひとつあげてみます。
「時計の針が前にすすむと「時間」に、後にすすむと「思い出」になる。そう寺山修司は言う。解散の急先鋒だった香取慎吾(39)は、SMAPを思い出にすることを選んだ。この背景には過呼吸になるほどキムタクを嫌いになったことがあるのだが、ではそのワケとは。...」
(「週刊新潮」)
なにもSMAPの話しの前に寺山の言葉を持って来ることもないように思いますが、彼の言葉がいまもなお影響力があることのあらわれでしょう。
私にとって寺山修司は平成15年に、「寺山修司俳句論~私の墓は私のことば~」という評論作品で現代俳句評論賞をいただいたこともあって、縁のある作家ですが、もちろんそれ以前から、高校生のころからだと思いますが、あこがれをもって寺山という作家を見ていました。
彼が脚光を浴び始めたのはだいたい1967年ごろからだったんではないでしょうか。
それ以前から早熟の俳人、あるいは短歌の俊英作家として注目されてはいましたが、1967年に「天井桟敷」という名の前衛劇団を旗揚げしたあたり。そして「書を捨てよ、町へ出よう」が刊行されたあたりと思います。
世の中、当時はベトナム戦争や70年安保闘争があり政治的に先鋭化した状況があって、文化的にも呼応して反体制的なもの前衛的なものに注目が集まるそういう時代でした。
ただ、寺山修司が本当の意味で大衆的な存在になったのは、1969年に大ヒットしたカルメン・マキの「時には母のない子ように」だったんじゃないかと思います。この年の紅白歌合戦で、当時まだ不良の象徴だったジーパンをはいて、気だるげに歌うカルメン・マキの姿を私は当時まだ子どもでしたが覚えています。
作詞寺山修司そして作曲は彼のマネージャー的存在だった女性田中未知。
カルメン・マキさんはもともとは寺山の「天井桟敷」の女優さんだったんですね。
寺山が目をつけて彼女に歌を歌わせた。ヒットしたら紅白にも出して大衆の度肝を抜いてみせた。そのあたりに時代の風をよく嗅ぎ分ける寺山の真骨頂が見えます。
彼女は今も精力的に活動を続けています。
これあらためて聴いてみて、詩がほぼ五音七音ということに気づき、そういうところに寺山らしさを感じます。歌謡曲に五音七音は昔からのことですけど、寺山はいつも新しいことをやっているという印象がある人ですが、こういうところは別に新しくはないわけです。
やっぱり根は定型詩人であることがこういうところからもうかがえます。
寺山は映画も作っていて、1970年の「田園に死す」は有名です。
とても前衛的で衝撃的な作品でした。「時には母のない子のように」と同じ時期に彼は映画でこうした試みをしていた。
彼のさまざまな表現への挑戦が映画という形で結実した象徴的な作品です。
この映画の予告編をいまでもyoutubeで観ることができますが、その中に面白い言葉が出てきます。
それは「俺の現在は少年時代の嘘だった。俺の少年時代は俺の現在の嘘だった」という言葉。
この言葉こそ、寺山の謎を解くキーワードだと思います。
それは彼の全てに当てはまる。この後も少しそのあたりに注目して見ていこうと思います。
この作品はまさにアングラ文化全盛を告げるものではありましたが、アングラや前衛と呼ばれる実験的なものが時代の風だと彼が感じていたのは間違いないとしても、文学的には案外保守的な作家だったようにも思います。少なくとも、ただ単に誰もやらなかったことをやるのが彼の目的ではなかったと思うのです。
では彼の目的とはなんだったのか。目的という言葉は適切ではないかもしれない。
彼の表現欲求はどこから来ていたのか。そういうほうが表現者としては適切かもしれない。
Q2 事実って何?
さきほどの「俺の少年時代は俺の現在の嘘だった」という言葉の意味を考えたいわけです。
それは彼がいかに必然や「事実という名の過去」を嫌い、偶然性というものに執着していたかという視点です。
彼の偶然性ということを考えるのに参考になるエピソードとして、劇団「天井桟敷」が1975年に阿佐ヶ谷周辺で展開した、市街劇「ノック」という試みがありました。
これまで演劇は劇場で役者と観客、舞台と客席という関係性の枠の中で展開するのが当たり前だったわけです。それを、おそらくニューヨークのオフブロードウェイでヒントを得たのだろうと思いますが、寺山は壊そうと思った。
どのように壊すか。
通常の街を舞台にしてしまおう。そして観客はその街に暮らす人であり、通行人だ。
役者は街角で突然演技を開始する。その目撃者はいったい何が始まったのか分からない。
それを現実に起こっていることと勘違い、いや勘違いとも言い切れない現実に起きていることは間違いないのだけれど、しかしそれは虚構だという現実と虚構が混ざり合った不思議な芝居だったわけです。あらかじめそうした市街劇があることを知ってそこに立ち会った人たちもいれば、まったく知らずに、もちろん知らない人のほうが圧倒的に多かったはずですが、知らずに目の前で実際に始まってしまった不思議な光景を目にする人もいたわけです。
そういう演劇が一度始まってしまうと、もう芝居として管理することは無理ですよね。
どうなるのか分からない。役者はシナリオどおりに動いていても客としての自覚のない通行人が芝居に介入してきてしまう。そうなるともう先は分からない。はたしてそれは芝居なのか現実なのか。これはすごい疑問の提示です。
つまり、虚構とは何か、という寺山の問いです。
虚構と現実の違いというものが、思っているほど明確なものではない。ということ。
いつでも虚構は現実になりうるし、現実もまた虚構になりうる。
「ノック」が提示したものはそのことです。
この市街劇は始まった後どうなったか。各所で市民が通報し警察が出動介入して、大混乱のうちになんとなく終わったわけです。終わったというよりは時間が過ぎた。もう芝居ではなく現実の時間の流れの中に虚構が飲み込まれていったわけです。
これは不思議な感覚ですよね。
芝居は1975年阿佐ヶ谷で開演したが、そのまま終わっていない。その虚構を現実だと勘違いした人たちの記憶の中ではまだ奇妙な現実として記憶されているわけです。完全に仕掛けられた虚構にもかかわらず、ある人たちの記憶の中では虚構ではないまま事実として今も仕舞われているわけです。
これです。この感じが寺山修司です。
つまり、偶然性です。偶然に起こったことで人生などいくらでも変わるのだということ、その偶然はひょっとすると仕掛けられた虚構であったのかもしれないということ、そうであれば人生は書き換えられる、ということ。
そろそろ句集『花粉航海』に入ります。
その前に、寺山の話をするときっとご批判があるだろう剽窃問題について簡単に触れておきます。
Q3,寺山は剽窃作家か?
まず最初に問題となったのは、短歌研究新人賞となった「チェホフ祭」でした。
この時は俳句からの盗用疑惑でかなり批判され、当時「短歌研究」編集長だった中井英夫も俳句に関して自分が無知だったということも言っている。本人もかなり批判にへこんでいたとも言われてますが、どういった内容かというと。
向日葵の下に饒舌高きかな人を訪わずば自己なき男(チェホフ祭)
・人を訪はずば自己なき男月見草 草田男
わが天使なるやも知れぬ小雀を撃ちて硝煙嗅ぎつつ帰る(チェホフ祭)
・わが天使なるやも知れず寒雀 三鬼
莨火を床に踏み消して立ち上がるチエホフ祭の若き俳優(チェホフ祭)
・燭の灯を莨火としつチエホフ祭 草田男
蛮声をあげて九月の森に入れりハイネのために学をあざむき(チェホフ祭)
・蛮声をあげて晩夏の森に入る 数雄
最後の句は宗内数雄さんと言って、寺山の友人の宗内敦さんのお兄さんということでこれはあまり知られていない俳人だったかもしれませんが、あとは草田男、三鬼ですから、盗作もなにもあったもんじゃなくて、そりゃすぐ分かったわけです。中井英夫が俳句の方に明るくなかったから気づかなかったかもしれないけれど、俳句の世界からは当然指摘されてしまう。そんな分かりきったことをなぜやったのかということ。おそらく寺山は盗作という不正行為をやったという意識はなかったんじゃないか。少なくとも後ろめたさはなかったと思う。そこに驚くほどの自信を感じるのです。
盗作という意識はなかった。しかし批判されると陰ではかなりへこんでいた。
このあたりに寺山という人物の性格が見えてくるようにも思います。
彼の性格や人格うんぬんは別として、剽窃という攻撃は、寺山がいつも人気があるのと同様に、いつも言われていることでもあります。
そのことをかなり批判的に調べて書いた作品に田澤拓也の「虚人 寺山修司伝」と長尾三郎の「虚構地獄 寺山修司」などがあります。
詳しくはそれを読んでほしいと思いますが、彼の秘書だった田中未知は、こんなことを言ってます。
「今になっても、したり顔で寺山が盗作癖のある作家だったと言う人がいる。
そんな連中の中にひとりでも寺山を超えたものがいるだろうか。
嫌悪と嫉妬。最も注目された存在ゆえのことであった。」
嫉妬であったと。確かにそういう面もあったのかもしれない。
一方、さきほどの宗内数雄さんの弟で寺山の友人であった宗内敦さんはこう言ってます。
「私は当時、寺山と、結局はその「盗作」を受容したマスコミ・文芸界を激しく嫌悪したが、今になって思えば、いつかそれを許容するところとなっている。理由は、簡単である。元歌となった俳句と剽窃した寺山の短歌は、全く異質の別作品であるからである。同じ言葉を用いてはいても、俳句各作品が、俳句作法や詩歌に心得のない常人にとっては容易には感知し得ない抽象世界を描いているのに対し、寺山短歌は実に平明直截、たやすく感情移入なし得る叙述具象の世界を写している。それは俳句と短歌のもともとの違いでもあろうが、このように両者は対象に迫る方法論を異にし、全く異質の精神世界に関わっている。(略)
寺山の行為と作品を剽窃といい、盗作と言って非難し、あるいは本歌取りと言って擁護するなど、どちらも当たらない、と思うのである。」
すでにあるものを材料にして別な次元の作品への転換していく。そこに言葉の魔術師としての寺山の本領が発揮されていると私は考えたいのです。だからよく昔から「本歌取り」ってあるよね、という言い方で剽窃ではないという人がいるけど、寺山に関してはそれもあたらないと思います。
「本歌取り」と言って擁護するぐらいなら、剽窃と言って、だからどうしたと言う方が寺山的なのかなとも思う。
かれは既にあるものをもっとすごいものに自分ならできると思ったのでしょう。
そして実際にそうなった。
有名な短歌。
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
冨澤赤黄男(かきお)の句
一本のマッチをすれば湖は霧
めつむれば祖国は蒼き海の上
どう思いますか。盗作ですか。全く違う世界がしかもこの俳句より遥かに高いところに鳴り響いているとは思いませんか。
最初にお話したカルメン・マキの「時には母のない子のように」という歌のタイトルも、これは黒人霊歌の「Sometimes I Feel like A Motherless Child」から取ったものでした。
また寺山の言葉と思われがちな名言「死ぬのはいつも他人ばかり」というのもフランスの芸術家マルセル・デュシャンの言葉でした。
D'ailleurs, c'est toujours les autres qui meurent.
「されど、死ぬのはいつも他人」
デュシャンがその墓石に「死ぬのはいつも他人ばかり」と刻むより、同じセリフを現代の新宿の雑踏に放り込むことのほうが数倍刺激的であり文学的だろう。それを寺山がやった。
「その言葉はデュシャンが言ったもので彼の墓石に刻まれている」と、得意気に指摘してみてもそのことにどれほどの価値があるか。そういうことを寺山はぼくらに問いかけているのだろうと思うわけです。
Q4,「花粉航海」ってどんな句集?
寺山修司の文芸というのは、俳句から始まったと言っていいかと思います。
それの多くはいくつかの結社誌や新聞や雑誌の投句欄に発表されましたが、句集という形で世に出されたのは昭和48年の「わが金枝篇」があって、その2年後昭和50年(1975年)にこの「花粉航海」が出版されました。
昭和55年には雑誌の別冊の寺山特集号に「わが高校時代の犯罪」29句というのもありますが、収載句数も装丁も含めて寺山が自分の決定版の句集と考えていたのが「花粉航海」です。
昭和50年(1975年)、齋藤慎爾の深夜叢書社から黒い箱と赤いカバーという装丁で出ました。大きくはありませんが、挿絵もあって句集というよりは詩集のような造りです。
収載句数は230句。
寺山が何歳のときかというと39歳だった。この年齢が重要。
俳句という詩形は彼が中学時代から高校時代まで夢中になっていたもので、それが大学進学する頃には短歌に創作の重心が移り、俳句は作らなくなってしまいます。
そして膨大な短歌を発表し天才歌人の名をほしいままにするわけですが、本人いわく26歳で短歌もやめる。俳句は20歳でやめたと彼は言っているわけです。
そうすると寺山は昭和10年12月生まれなので「花粉航海」が昭和50年39歳のときですから、約20年のギャップがあることになります。
彼はこの句集の「手稿」という名のあとがきでこう書いています。
「ここに収めた句は、「愚者の船」をのぞく大半が私の高校生時代のものである。」
「齋藤慎爾のすすめを断りきれずに、公刊することになった」
ここに実は寺山の罠というか仕掛けがあります。
その謎ときは後回しにして中を見ていきましょう。
まず巻頭句に度肝を抜かれることになります。
目つむりていても吾を統ぶ五月の鷹
この句を真っ先に置いた。
詩性の最も高みにある句。リゴリズム、スケール、青春性。
いかにも寺山らしいケレン味がここにある。
これが高校時代に作った句のひとつで、青森の俳誌「暖鳥」(だんちょう)の昭和29年6月号に掲載されていますから18歳の句としてはっきりしています。
ちょっと出来すぎの句です。
深谷雄大先生は、これは有名だけど出来すぎていて嫌味だと言ってました。
ちなみに雄大先生の好きな句は、
台詞ゆえ甕の落葉を見て泣きぬ
だそうです。
高校の学校祭の演劇かなにかの雰囲気で、確かに高校生らしい素朴さが「甕の落葉」の句にはあります。しかしこの句もちょっと曲者の句ではあるけれど。虚と実がここにある。そこがいかにも寺山らしい。演劇的な世界観。
高校生俳人の句集としては、やはり青春を感じさせる句に目がとまります。
たとえばこんな句です。
ラグビーの頬傷ほてる海見ては
十五歳抱かれて花粉吹き散らす
林檎の木ゆさぶりやまず逢いたいとき
蝶どこまでもあがり高校生貧し
大揚羽教師ひとりのときは優し
されど逢びき海べの雪に頬搏たせ
便所より青空見えて啄木忌
方言かなし菫に語り及ぶとき
胸痛きまで鉄棒に凭り鰯雲
このほかにもかなりあります。
ただ青春ということ以外にこの句集を通して読むと、はっきりとテーマのようなものが浮かび上がってきます。
この句集のカラーを決めている三つのキーワード。
それは「故郷」、「父」、「母」です。
この三つは彼にとって他の表現の中にもよくあらわれるテーマであり、寺山の世界を知るためには重要です。
「故郷」は自身の文学的土壌を成した青森の風土そのもの。
「父」は戦病死しており記憶がない。それが彼にとって「不在」のキーワードとなった。
「母」は終生彼にとって壁となった存在、寺山ハツその人で、愛憎という感情が死ぬまで彼と母との間にあり続けた。乱暴に言ってしまえば寺山はマザコンだったと思います。妻の九條映子と母との諍いにかなり悩まされてもいたようです。九條さんとは結局離婚してしまいますが、その後も仕事は一緒にしていました。
この三つは寺山にとって切り離せないかたまりとなっている意識であり、作品のすべてのバックボーンとなっています。
「故郷」
夏井戸や故郷の少女は海知らず
わが夏帽どこまで転べども故郷
夕焼に畳飛びゆくわが離郷
車輪の下はすぐに郷里や溝清水
故郷(くに)遠し桃の毛の下地平とし
にわかに望郷葱をスケッチブックに画き
「父」
桃うかぶ暗き桶水父は亡し
麦の芽に日当たるごとく父が欲し
父と呼びたき番人が棲む林檎園
父を嗅ぐ書斎に犀を幻想し
冷蔵庫の悪霊を呼ぶ父なき日
法医學・櫻・暗黒・父・自瀆
「母」
花売車どこへ押せども母貧し
浴衣着てゆえなく母に信ぜられ
蜻蛉生る母へみじかき文書かむ
暗室より水の音する母の情事
母とわが髪からみあう秋の櫛
母の蛍捨てにゆく顔照らされて
「故郷」「母」「父」。
このテーマは何を意味するか、ということを考えなくちゃならない。
これはなにも深読みではなくって、寺山が読者にそのことを提示したのだと思います。
それほどむずかしい問いではないですね。
これは寺山の「自叙伝」ということ。
句集「花粉航海」は寺山修司の自叙伝として、ある意味作為的にまとめられたものだということです。
さて、それがわかっても安心してはいけません。
そこに彼の文芸の、まあ真骨頂というべきものがあるわけです。
俳人という人種は他のジャンルの表現者に比べて、どうもたいへん素直というか、信じやすい性格の人が多いように思います。
「自叙伝」などというと、そこに書かれていることがまるで事実であると信じてしまうのが俳人なのかもしれない。
しかし寺山の発言、他の分野での創作を見ると、彼は過去の事実というものをまったく重視していないのです。
日本の文芸のその底には数百年流れてきた「私性」というものがあり、彼はその伝統的な私性というものにとても敏感でした。
「私」を表現するということが彼の文芸だった。
その点では寺山は前衛とは言えずむしろ保守的であったと言ってもいいと思います。
しかし彼はその「私」を疑うところから「私」を表現した。
つまり「虚構の私性」と言えるだろうものです。
彼は自叙伝についてこんなことを言っています。
「自叙伝などは、何べんでも書き直し(消し直し)ができるし、過去の体験なども、再生をかぎりなくくりかえすことができる。できないのは、次第に輪郭を失ってゆく「私」そのものの規定である」(「黄金時代」)
読者は「花粉航海」を一冊の「私」小説として読む。
俳句という詩形のもつリアリティを逆手にして「私」小説的な虚実の皮膜の中に一群の俳句を置いたわけです。
Q5、メモリアリズム? 連続性?
そして彼の発言を追いかけてみると俳句に対する2つの批判が見えてきます。
それは「メモリアリズム」と「連続性」というものです。
このことは彼の俳句・短歌の本質と関わることなので少し説明が必要です。
「日常報告記録(メモリアリズム)にひたりきった歌人たちの「月並詠」のなかにあって、こうした塚本邦雄の歌は、つねに存在の核心をまさぐりつづけていた」(「戦後詩」)
これは短歌のことを言っていますが、俳句についても同じことを考えていました。
俳句では「俳句とは一人称の詩だ」とよく言われています。
だから「われ」という言葉を不用意に使うなと言われることもあります。
そして一人称の文学とは日記的事実に根差した作品という受け止めをされるのは避けられない。
それを寺山はメモリアリズムと呼び、日常雑記的な生活詩として嫌いました。
というより日常雑記的な生活詩であることを疑わない俳人たちを嫌ったと言えるかもしれません。
それと同次元に「連続性」というのがあります。
言い換えれば「連続性」とは「日常性」であり、「非連続性」は「非日常性」です。
私たちは普段日常性に疑問を持たず生活しています。
しかし創作というものはその日常に一線を画するものであることは、おそらく誰もが納得するものと思います。
句を日常雑記的な文芸として創作し続けながらそれを文芸としてゆくためには、一見日常性の中にあるように見えて、俳句という詩となったときに異なる次元を獲得しなければならない、ところがそうはならずに「報告にすぎない」句が量産されている。
なぜだろう。
そこには人生の連続性というものへの盲信があるからではないでしょうか。
昨日があり今日があって、必然的に明日があるという思い込みに創作に際して浸りきっているからだということです。
メモリアリズムを超える。連続性を超える。
彼が手掛けたあらゆるジャンルに共通した彼の姿勢と言っていいだろうと思います。
そして句集「花粉航海」もそうした文脈から見ていかなくちゃならないかと思うのです。
Q6、「日記にうそを書く男」?
寺山は歌人・塚本邦雄との対談「ことば」でこんなことを言っています。
「人間の個人の記憶というものに対する、ある種の嫌悪感みたいなものがあって、記憶を自在に自分が編集したり管理できたりするようになったとき、初めて人間は自由になるのではないか、要するに、歴史によって人間を解放するというのはまったく錯誤であって、その根源では記憶から人間を解放するということが、ある意味での自由への道ではないか」
「「日記にうそを書く男」というのは塚本邦雄論を書くときの非常に重要なポイントになるね」
寺山は対談相手の塚本のこととして言っているけれど、この「日記にうそを書く男」はまさに彼自身のことだろうと思うのです。
そして相手が歌人だったことから少し気が緩んだのか、こんなことまで言ってしまった。
「文学史家的に「いつ書いたものか」と推理することは、ほんとうは重要なことじゃないから。むしろ、いまつくって「高校時代の作品」として発表して、発掘された未発表作品という話題を作ることだって一つのフィクションですからね。」(対談「ことば」)1970年
言っちゃってます。これは油断しましたね、寺山さん。
ここまで来れば「花粉航海」という高校時代の句集という設定を文字通り信用するわけにはいかなくなるわけです。
寺山は私性の文芸である俳句を通して私性の真の顔を描き出そうとした。
私性とは自ら書いた自分の神話であり、「故郷」「父」「母」という自伝的事実に最大限の虚構の屋根をかけることだった、と思うわけです。
私は、ですから、「花粉航海」に収められた230句の俳句のアリバイ探しをしてしまった。
それは寺山が嫌った文学史家的な愚行であることは十分わかってはいたものの、そこをあばかなければ寺山という人間はわからない。
Q7,本当に高校生時代の俳句だったのか?
私はこの句集の中に高校生時代の俳句とはっきり分かるものにしるしをつけていきました。
それを寺山風に「アリバイのある俳句」としてみました。
そうすると全体の230句の中にアリバイのある句、つまり高校時代の句は105句だったのです。
そしてあとがきに書かれている「愚者の船」の章には彼のいうとおり高校時代の句はひとつもなかったのですが、他の章もアリバイのはっきりしている句のほかにどうもあやしい句がたくさん混ざっているわけです。
アリバイのない句、125句の中には高校生の頃に作って未発表だった句も無いとは決め付けられません。しかし、一句ずつ検証していくとアリバイのない句の大半はこの句集の刊行に向けての後年の作品だと私は思っています。
使われている言葉が違うこと、句柄が違うこと、高校時代の句の多くが最初の歌集「チェホフ祭」に類似しているのに、アリバイのない句の多くが後の歌集「田園に死す」に類似しているなどからそう確信しました。
たとえば次の句の中でアリバイのない句、高校時代というのは真っ赤な嘘で後年の句と思われるのはどれでしょうか。
「左手の古典~青森駅前抄」
花売車どこへ押せども母貧し
みの虫や一夜一会のみなしごに 〇
葬式におくれ来て葱を見て帰る 〇
電球に蛾を閉じこめし五月かな 〇
青む林檎水兵帽に髪あまる
わが夏帽どこまで転べども故郷
影を出ておどろきやすき蟻となる
明日もあれ拾いて光る鷹の羽根
雪解の故郷出る人みんな逃ぐるさま
マスクのまゝ他人のわかれ見ていたり 〇
燕と旅人こゝが起点の一電柱
、PP36
「鬼火の人~ひとさし指」
秋風やひとさし指は誰の墓 〇
螢来てともす手相の迷路かな 〇
旅鶴や身におぼえなき姉がいて 〇
出奔す母の白髪を地平とし 〇
家負うて家に墜ち来ぬ蝸牛 〇
島の椿わが母の藝ついに見ず
姉と書けばいろは狂いの髪地獄 〇
かくれんぼ三つかぞえて冬となる 〇
旅の鶴鏡台売れば空のこる 〇
お手だまに母奪われて秋つばめ 〇
※○が付いている句が後年の作品と思われる
彼は天才高校生俳人という虚構を39才のときに作ろうとしたのです。
つまり虚構をもって人生を書き換えるということ。
人生は容易に書き換えられるということを現実にやってみせている。
そこまでして何をしたかったのか。
それは誰にも本当のところは分からない。
私はでもひとつの仮説を持っています。
Q8, なぜ???
ここでまた彼の対談のひとつを紹介したいと思います。
それは寺山修司と三島由紀夫の対談です。
この二人の対談は雑誌「潮(うしお)」の1970年7月号に発表されました。
今は講談社学術文庫の寺山の『思想への望郷』という本に入っています。
この対談の行われた1970年、って三島にとってどういう年だったか分かりますか。
この年の11月に三島は陸上自衛隊市谷駐屯地に突入して割腹自殺をしたわけです。
この対談は7月号なので実際には5月ごろ行われたものだろうと思いますが、もちろん三島は既に市谷突入をひそかに計画していたわけで、その覚悟を秘めた上で寺山と話している。
大事なところは次の部分です。
まず偶然性ということでぶつかります。
寺山: 必然性というのも、偶然性の一つです。ぼくらは偶然的に宇宙に投げ出されたのだ、とは思いませんか。
三島: 思わない。つまり、必然性が神で、芝居のスピリットなんだよ。だから、ハプニングというものを芝居に絶対導入したくないんです。というのは、芝居は必然性があるから偶然性が許されているんで、ギリギリの芝居の線だと思う。
この対談の時、三島は寺山に、自分がボディビルをやっていて胸の筋肉を自在に動かせると言ってやってみせるシーンがあって、それが伏線になって対談の終盤、寺山と三島との間でこんな会話が交されます。
寺山 三島さん。いつか胸をこうやって動かすんだよって胸張っても、自在筋の動かない日が、ある日突然やってくるわけですよ。
三島 そういう日はこないよ。
寺山 いや、きます。そういうときにエロティシズムが横溢する。
三島 そういう日はこないよ。絶対に。
こう三島が言い切ったことの意味を寺山は理解できるはずもなかったわけです。
三島だけが、ひそかにこの一言に覚悟を込めていたんでしょう。
三島の勝ち、寺山の負け、という対談になってしまったわけですけど、必然にこだわる三島、偶然にこだわる寺山、この対比は面白いです。
これは寺山論だけではなく三島論としても使える。
彼は運命を認めたくなかった。人生がいくらでも書き換えられるのだとすれば運命などないことになる。そして、偶然というものを熱愛していた。
そこまでして運命を認めないと考えた背景に彼の病気があるんじゃないか。
大学時代にネフローゼにかかり生死の境を行き来し、その後血液製剤の後遺症で肝炎、肝硬変、肝癌となったこと。
この病気は人にもよるのですが長い時間がかかる。しかし確実に進行していく。
彼は肝炎が重くなるにつれて、その後の病気の進み方を知ることになったはずです。
最後は肝硬変、肝癌で終わることがもう分かっていた。
彼は自分の死を常に意識していたのでしょう。
しかし認めたくない。だから人生というものはひとつではない、全ては偶然で成り立っているという考えにこだわり続けたのだろうと思います。
修司は「徹子の部屋」に出演したことがあり、そのとき、親のない生活を送った子ども時代を振りかって、孤独感から友人を求め、友人を集めるために作り話をいつも作っていたということを言っています。
なるほど修司は中学高校時代から虚言癖があったようです。もともとそういう作り話にたけていたこともあり、そうした性格が複数の人生という発想に繋がり、自分の死という運命を認めないことからの創作を可能にしたのだろうと思います。
寺山が提起したもの。
それは文芸における安易な記録主義の無意味さでした。
それは俳句においては写生の否定でもありました。
事実はいくらでも書き換えられるものであるのに、なぜ事実を書き写すことに意味を求めるのか、それが寺山には理解できなかったし、文芸は虚構によって成り立ち、虚構によって真実を現出させるものだという確信があったのだろうと思います。
それはひょっとすると芭蕉の虚実論にも通じるもので、現代俳句の虚実論だったのではないでしょうか。
絶筆 「墓場まで何マイル?」
寿司屋の松さんは交通事故で死んだ。
ホステスの万理さんは自殺で、
父の八郎は戦病死だった。
従弟の辰夫は刺されて死に、
同人誌仲間の中畑さんは無名のまま、癌で死んだ。
同級生のカメラマン沢田はベトナムで流れ弾にあたって死に、
アパートの隣人の芳江さんは溺死した。
私は肝硬変で死ぬだろう。
そのことだけは、はっきりしている。
だが、だからと言って墓は建てて欲しくない。
私の墓は、私のことばであれば、充分。
(「週刊読売」1983年5月22日号)
絶筆が週刊誌というのも寺山らしい最期でした。
これで私の話を終わります。
どうもありがとうございました。
やっぱり山の手ギャラリーに行ったらいいかな〜
返信削除1958年頃に山口県の高森高校で宗内数雄先生に国語を教わりました。ある日の授業で「同期の桜」を朗々と歌われたのを覚えています。
返信削除