2013年3月26日火曜日

俳句集団【itak】第六回対談抄録『酒場と写真と全共闘一代記』



第6回となる【itak】は日、札幌・中島公園の北海道立文学館で開かれ、一部交通機関が止まるほどの悪天候にも関わらず、54名の参加者で盛り上がりました。

部イベントでは昨秋、『新宿、わたしの解放区』(寿郎社)を出版した根室出身の写真家・佐々木美智子さん(愛称・おミッちゃん)と、北海道新聞記者・岩本茂之さん(碇)による共著者トーク『酒場と写真と全共闘の一代記』が行われました。この本は、新宿ゴールデン街で伝説のバーをやりながら全共闘や映画のスチールを撮った佐々木さんが語る戦後ニッポンの裏面史を、岩本さんが聞き書きしたもの。PowerPointを使ってスライドを見ながら、岩本さんが佐々木さんの本を書くきっかけや彼女の半生について語った後、佐々木さんが自主制作した映画『いつか死ぬのね』(1974年)、『アリバイ 新宿村で出会った人々』(1974年)のダイジェスト版上映が行われました。以下、第部イベントをご紹介します。

 

五十嵐秀彦さんの紹介の後、佐々木さん、岩本さんが登壇。
岩本さんがPowerPointを使いながら、佐々木さんの半生をたどりました。


■執筆のきっかけ・岩本茂之

2005年の夏、札幌から東京に転勤し、ささやかな夢だった新宿ゴールデン街に飲みに行って、バーをやっていた佐々木さんに出会った。一見、ほんわかした優しそうな表情の佐々木さんから語られる話を聞いてびっくり! 原田芳雄さんと餅つきをやり、松田優作さんは「ユーサク」と呼び捨て、沢木耕太郎さんから蔵書をもらい、全共闘のシンボル・秋田明大さんと行動を共にした。あの若松孝二監督を「ケチだ」とバッサリ・・・・・・○×#▲@? 何だか分からないけどすごい人なんじゃないか。もっと話を聞きたい、記録に残したいと思って、佐々木さんの元に通い始めた。

 

■根室時代

佐々木さんは根室の農家に生まれた。小学校2年の時、太平洋戦争に突入。長兄は旭川・第七師団の徴兵検査で「近衛兵に抜擢する」と言われたが、跡継ぎだからと拒否。すると「天皇陛下のために死ねないのか」と怒りを買い、リンチで殺された。以来、佐々木さんの母親はショックで人が変わったように暗くなった。そんな根室が大嫌いになった佐々木さん。根室高校を卒業後、同じ職場で知り合った函館出身の男性と結婚、故郷を捨てたのが長い旅の始まりだった。

 

■函館・札幌時代

渡島当別での新婚生活は、閉鎖的な官舎暮らし。一度限りの人生、自分の力で生きてみたいと思った佐々木さん。離婚を決断し、函館のキャバレーや札幌・ススキノの料亭の事務職で働いた。だが根室から訪ねてきた母親から、「おまえは傷もんだから東京で手に職をつけておいで」と言われ、美容師になるべく上京する。ちょうど札幌・大通公園ではテレビ塔の建設真っ最中。佐々木さんにとっての「三丁目の夕日」だった・・・。

 

■新宿で屋台引き

母親に言われて美容学校に行ってみたものの、拝金主義的な校長の祝辞に嫌気が差し、初日で自主退学。22歳、一人で生きていくため、やくざに所場代を払い、新宿・伊勢丹裏で、おでんの屋台を引き始めた。そこで、バタ屋、靴磨き、街娼、ヌードダンサー、役者といったすばらしい人たちと出会い、人生観ががらっと変わった。ある時、お客だった日活撮影所の人間からに「かたぎになれ」と言われ、編集部に入ることになった。

 

■日活時代

職場は編集部。脚本を書けると思いきや、ひたすらネガを切ったり貼ったりの地味な仕事。でも石原裕次郎小林旭赤木敬一郎吉永小百合・・・そこでもまたいろいろな人たちに出会い、裏方たちは後のお店の常連客になった。でも映画の世界は監督、カメラマン、主役クラスの役者が第一。女性の自分はそのどれにもなれない。それならと一人で自立できる仕事として写真家を目指した。


■写真学校
 


写真学校に入り、常に広角レンズで被写体に迫った。工業地帯の海で追われゆく漁師たち、横浜の麻薬の巣窟、成田闘争・・・。次第に社会意識に目覚めていく。




 

 ■日大闘争


佐々木さんは映画仲間と日大闘争のドキュメンタリー映画を撮った。やがて映画の撮影は終わったが闘争は終わらない。最後までドキュメントしたいと思い、一人カメラを持ってバリケードの中へ通い続けた。常に学生たちの側に立って写真を撮り続け、やがて信頼を勝ち取るようになった。



■新宿ゴールデン街


闘争の撮影に追われ、生活費を稼ぐ時間もない。学生たちもバリケードを排除されて集まる場所がない。じゃあ大好きなゴールデン街でバーをやろう!と思い立ち、伝説の<むささび>を始めた。ビール箱の椅子、フーテンたちに持って来させた電話帳をペタペタ貼った壁紙のたった3坪の解放区。学生を中心に作家、漫画家、役者、ポルノ女優や映画人たちが集った。喧嘩はしょっちゅうで警察沙汰も。貧乏学生にはいつも酒代を負けてやった佐々木さん。そんな商売じゃ儲かるはずもなく、結局、映画編集のバイトで店の家賃を稼いだ。



 ■政治の季節の終わり





1969年、東大・安田講堂陥落の直前にキャンパスに入った。機動隊にぼこぼこに殴られ、カメラとフィルムを取り上げられた。全共闘のシンボル・秋田明大さんとも行動を共にしたが、やがて政治の季節は終わりを迎えた。



 

■映画

黒木和雄監督に呼ばれ、京都のお寺で『竜馬暗殺』のロケに参加した。現場は、金はなくとも毎晩酒盛りをやって映画について熱く語り、時に原田芳雄石橋蓮司松田優作といった面々が黒木監督をつるし上げるほどだった。原田さんいわく「野蛮なパワー」がみなぎる現場は結束力もすばらしく、あの歴史に残る名画を生んだ。


 


■再びの解放区


パラオの遺骨収集団に取材で参加し、同行したインテリやくざに気に入られた。ゴールデン街の3坪から一転、55坪の高級クラブを借りる。<ゴールデンゲート>は左翼、右翼、私服、役者、歌手、学生たちも集まる前代未聞の解放区だった。だが学生運動は佐々木さんの嫌いなセクト主義に陥り、閉塞感いっぱいのまま店をたたむことに。そして、スペイン、さらにブラジルへと旅立つ。

 

■ブラジルへ

雑誌の仕事でリオのカーニバルを撮りに行き、開高健「オーパ!」の影響でアマゾンへ。店をやったら大繁盛し、アマゾンの川魚で寿司を握ったり、ピラニアをスープにしたり。マフィア系のライバル店と銃撃戦も。でもそんなマフィアとも次の日から仲良しになるような生きやすい社会・ブラジルに惚れ込み、永住を決意。日系人のための図書館をつくり、沢木耕太郎さんから蔵書2万冊を寄贈してもらった・・・。


 

 
■原点の新宿へ


79歳、原点・新宿でもう一回、みんなが集まれるお店をやろう!
 



■この本を通して伝えたかったこと


何もない根室の原野から始まった人生。行き当たりばったり、出たとこ勝負の人生だったが、人と人が出会って、いろいろなことが生まれた。一歩を踏み出してみないと状況は何も変わらないし、可能性は無限大にある。そんな出会いの背景にあるのは、メールやツイッターではなく(自省も込めて)、野蛮なパワー(原田芳雄)によって生まれた濃厚濃密な絆がある。酒場も<場>であり、俳句も<座>の文学。そんな人と人との集いであるitakの重要性を感じる。

 

■佐々木美智子さんから一言

わたしが新宿で屋台を引いていた頃はちょうど東京オリンピックを控えて、屋台に対する取り締まりが厳しかった。何にも悪いことをしていないのに、交番に連れて行かれ、泣いたことを覚えている。今もオリンピックの誘致が話題になっているが、みんなが少しでも明るくなれるのならいいのかなとも思ったり、複雑だったりする。でもあの屋台の時代のように弱い者が排除されるようなことはあっては絶対ならないと思う。わたしは大好きな兄を軍隊で殺され、あの当時はどの家もそうだったと思うが、わたしの家族は本当に暗くなった。わたしは戦争だけは絶対許せないと思っているし、私たちは「個」として生きられなかった時代のことを絶対忘れちゃいけない。

 

 その後、佐々木さんの自主制作映画『いつか死ぬのね』『アリバイ 新宿村で出会った人々』のダイジェスト版を上映しました。坂田明さんのサックスが流れる中、田中小実昌たこ八郎秋田明大・・・佐々木さんが新宿ゴールデン街で出会った人々の顔の数々に目を赤くする参加者もいました。その後、第部の句会までの短い時間を使って、佐々木さんのサイン会も開かれました。会場には、佐々木さんが新宿『ベルグ』で行った『ブラジル写真展』の作品も飾られ、参加者のみなさんも見入っていました。

(了)



今企画に際し、意気に感じてくださって、はるばる伊豆大島から【itak】のためにお越しくださった佐々木美智子さん、雪の中かけつけて、書籍即売・写真展示をお手伝い頂いた『寿郎社』のみなさんにたいへんに感謝いたします。また、悪天候の中、お運びいただき感動をともにしてくださった参加者のみなさんすべてに、この場を借りて深く御礼申し上げます。ありがとうございました。

俳句集団【itak】幹事一同


※文中『いつか死ぬのね』『新宿村で出会った人々』について
歌手・渚ようこさんのHPをリンクさせていただきました。

 

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