2014年9月12日金曜日

俳句集団【itak】第15回イベント 講演会・句会は明日です!



俳句集団【itak】事務局です。
仲秋の名月、白露、重陽の節句と、季語と共に始まった今週ですが
続く大雨には肝を冷やしました。雨もそろそろ上がるようです。

第15回イベント、講演会・句会はいよいよ明日となりました。
どなたでもご参加いただけます。

当日参加も歓迎です。
お誘いあわせの上、どうぞお気軽にお越しくださいませ。

天気予報は曇。風が少し強いかもしれません。
みなさまどうぞお気をつけてお運びください。


◆日時:平成26年9月13日(土)13時00分~16時50分


◆場所:「北海道立文学館」 講堂
     札幌市中央区中島公園1番4号
     TEL:011-511-7655


■プログラム■

◎第一部 講演会
    『ラフカディオ・ハーンの真面目(しんめんもく)』
     ~「一つの民族の経験の総和よりも大きな記憶」をキーワードに~

 講 演 英文学者・俳人 俳句集団【itak】幹事 平 倫子 

◎第二部 句会(当季雑詠2句出句)

 <参加料>

 一   般  500円
 高校生以下  無  料(但し引率の大人の方は500円を頂きます)



☆また、翌日の午後から同じく文学館講堂で主に高校生を対象とした小句会を開催します。
 大学生・院生、中学生あるいはその年代のみなさんも自由にご参加いただけます。

◆日時:平成26年9月14日(土)13時00分~16時30分ころ

◆場所:「北海道立文学館」 講堂
     札幌市中央区中島公園1番4号
     TEL:011-511-7655

◆句会(当季雑詠3句+当日席題2句出句)

★参加無料・お茶菓子付、当日参加歓迎です。見学自由。

 どちらも詳細お問い合わせはEメール(itakhaiku@gmail.com)へ。






2014年9月10日水曜日

「俳句甲子園ぶらぶら」 ~俳句甲子園観戦記 ・ 堀下 翔~



 俳句甲子園。面白い話だと思う。松山のふつうの商店街に、全国あっちこっちから高校生がやってきて、真剣な顔で俳句のことを喋る。そこにいる人はほとんど俳人。高校生、審査員、観客、ほとんど。そりゃ「なんだこのイベント邪魔くせえな」と思ってる松山市民も大勢いるのだろうけど、それでもこの光景はちょっと感動的である。石を投げたら俳人に当たる。この光景を見たくて筆者も松山に行った。いちおう母校・旭川東高校につきっきりだったのだけれど、旭川東の奮闘は現役生がすでに書いているので、こっちは思ったことをぼちぼち述べてみる。ほとんど雑談である。詳細は公式ホームページに出ているのでそちらをご覧いただきたい。優勝は開成高校、準優勝は洛南高校Bだ。
 
 まったく関係のないことから始める。
 
 高校生俳句には、ある種の類想が頻出する。おじいちゃんがどうである、とか、告白がどうである、とか、帰り道がどうである、とか。これは単に思い出だけれども、ある高校文芸コンクールの俳句部門で全国の高校生俳人が作品を持ちよったとき、下五に「帰り道」を据えた句がたしか3句もあった。そりゃ高校生、一日でいちばん楽しいのは帰り道かもしれないけれど。こんなふうに、高校生俳句を集めたら似たり寄ったりの句が必ず出てくる。

 これらを生み出すのはおそらく俳句にほとんど触れていない作者である。高校生俳句(というより子供俳句全般と言った方が正しいが)の多くが学校の宿題であるという実情がある。俳句甲子園組にしても、彼らのなかで純粋な「俳句部」に属している者はさほど多くない。大多数は「文芸部」としてふだんは小説や詩を書いていて、部活動の一環として俳句甲子園に来る。5人1チームという大会のルール上、俳句をほとんど作ったことのないままチーム入りする生徒もいる。だから彼らは、俳句で何を表現できるのか、よく知らない。彼らの手にあるのは「どうやら自分はこれから5・7・5で何かを書かねばならないらしい」という状況だけである。虚子も草田男も兜太も軽舟も彼らの知識の範疇ではない。結果として彼らが5・7・5に詠むのは目の前にあるごく身近なことがらとなる。 

 それでいいと思う。目の前にあるものを詠む。間違いなく、俳句との正しい付き合い方である。だからこそ類想の塊のような句が毎年あちこちのコンクールで入賞している。そんなところから出発した一部のがきんちょたちが「褒められたし、俳句、おもろいかもな」なんて思って、おもむろに句集を手に取ったりNHK俳句を見はじめたりするのだろう。
 

 えーと、俳句甲子園の話。とにかく、高校生たちは、俳句甲子園に来る。スタンスはそれぞれである。「あの中原とかいう風流なおっさん、審査員だったんか!」「きゃー、あの高柳っていう先生、超イケメン~~」みたいなのから、「やっぱあたしたちの教科書は『新撰21』だよね」「神野さんのサインもらっちゃった」みたいなのまで、まあいろいろである。もっとすごいのになると「なんでみんな阿部青鞋読まないのかな・・・・・・」「私、富安風生が好きです」「卒業したら〇〇に入会する!」「おいらは□□!」「先輩、今月の『俳句』の中沢新一と小澤實の対談どう思う?」なんてのもいて、まあいろいろである。 

 で、彼らが俳句を作って、大人に見せる。するとたいていこう言われる。「高校生らしさがあっていいね」(OR「もっと高校生らしくなくちゃ」)。俳句甲子園に限らず高校生俳人の通過儀礼である。言われてない高校生はモグリ。今年の松山でも何回か聞いた。 

 高校生らしさ。なんだそれは。褒められた方はとりあえずうれしいけれど、他方「もっと高校生らしさがほしいね」なんて言われた側にしてみればこんな災難はない。こちとら虚子を目指してるんだぞ・・・・・・ってのは少数派だけれど、そうでなくても大人から「高校生らしさ」を押し付けられていい気分はしない。 

 でも大人が求める高校生らしさってそんなに変な価値観なのかしら。ちょっと立ち止まってみたい。今年の俳句甲子園の句を思い出しながら。


 炎天を来て美しき祖母見舞う   小場佐 名優(熊本信愛女学院高校)

 
 小学校の道徳の授業で、お婆ちゃんを「きたない」と思ってしまう子の話を読んだ覚えがある。子供にとって年寄は、ときに、ものすごく理解しがたい。体も顔も自分と全然違うし、手ぇ洗わないし、唾とばすし。年寄に苦手意識を持つ子供は多い。そんな彼らが少しだけ成長して、あるとき祖母を美しいと思う。そういう時期がある。老いた人への理解かあるいは自分の感受性の変化か。炎天の道を来た作者の引き締まった顔が見える。


 炎天や勝って干される柔道着   野嵜 大也(愛光高校)


 柔道着のごわごわ感が、炎天の下にリアリティをもって立ち上がる。干す、じゃなくて、干される、なのが即物的。その即物性に「勝って」という経緯を付与した面白さがある。高校生、どう客観的に見ても、頭の半分は恋か部活だ。一戦一戦が自分そのもの。そうして手にした勝利の実感を柔道着に託す。実感とリアリティが互いを支えている。 

 美しいという実感、勝ったという実感。いきいきとした実感にはタイミングがある。ああ、ほんとうにこんなことがあるんだろうな、とため息の出る句を見たい。おそらくそんな句のことを誰かが「高校生らしい句」と呼んだのだ。これは言葉が悪い。大人が「高校生らしく」なんて言ったらまるで枠組みを押し付けているようだ。そうではない。90歳には90歳の、40歳には40歳の、17歳には17歳の実感がある。それを無視して背伸びをした句が「高校生らしくない」と呼ばれるだけである。


 生まれたる病院失せて大文字   渡邉 玉貴(洛南高校B)


 ノスタルジーは大人の特権ではない。追憶はおとなだけの遊びではない。自分の生まれた病院が、十数年経ってなくなってしまった。自分はまだ若い気でいたけれど、時間は確実に流れていた。そんなところから、人間に流れる時間の理不尽をはっきりと意識する。それまで単に壮麗なイベントとしか思わなかった大文字が意味を持って見え始める。土佐高校の宮﨑玲奈の句「昭和を映す鏡を売っている夜店」もまた高校生のノスタルジーか。夜店のおもちゃを見ていると、ときどき大昔のテレビ番組のキャラクターが混じっている。掲句の「鏡」はそれらの比喩である。あるいはもっと実際的にキャラクターのプリントされた鏡でもいいが。・・・・・・と書いて気づいたけれど、だとしたらこの句の原型はひみつのアッコちゃんのコンパクト――女の子の鏡の王様だろう――そのものかもしれない。とにかくこの鏡と出会うことで、作者の眼前に昭和という時代が立ち上がる。自分の知らない時間に対する興味と憧憬。昭和って何だ。その気持ちをノスタルジーと呼ぶのが正しいかどうか知らないが、高校生ならだれしもが持ち合わせている感情なのは間違いではあるまい。


 額に汗俺のカルビを裏返す     石丸 雄大(愛光高校)


 俺のカルビを裏返すッ。自分のカルビは自分で裏返すのだという強い意志。かっけー。高校生、焼肉が楽しくて楽しくて仕方のない年頃である。友達と一緒に焼肉に行く。俺のカルビの隣にはあいつのカルビがある。もちろん、だれのものでもないカルビはすべて俺のカルビである。


 留学を決めたる友と夜店ゆく   田村 明日香(慶應義塾湘南藤沢高等部)


 高校生の間でも長期留学はよくある話。一年、たった一年であってさえ、高校時代が三年しかないことを思えば、欠落は三分の一に亘る。このさみしさはちょっと言いようがない。非日常の遊び場である夜店を歩きながら、だんだんと友が日常から切り離されてゆく。詠者はその揺らぎを捉えた。

 
 実感はむろん年齢によってのみ導かれるものではない。物をじっくりと見る。吟行へ出ようぜ、高校生。夜店を詠みにいこうと誘えば、女の子とデートできるし(と言っていたのは、OBの小鳥遊栄樹だ)。


 わたあめを抜ける夜店の明かりかな  岸野 桃子(広島高校)


 重さがなくて繊細で、わたあめはほんとうに魅力的な姿をしている。砂糖を熱して飛ばすだけでかくも心の騒ぐものが生まれるとは俄かには信じがたい。袋から取り出したわたあめを顔の前に運ぶ満足感。そのわたあめに透ける夜店の灯。甘そうな光である。夜店という場の気分のよさがこのあわあわとした光に集中する。


 プラカードガールや汗を拭かぬまま   木村 杏香(旭川東高校)


 甲子園か何かの試合。プラカードガールにはプラカードガールの本分がある。学校を背負っていちばん熱く戦うのは自分ではなく選手たち。彼女はただじっと立つだけ。そんな彼女の姿を、プラカードガールや、と大きく提示して、あとは、その汗のみを言う。拭かれない汗が彼女そのものである。


 流星は象の余生のしづかさへ      森 優希乃(松山東高校A)


 老象へと流れる星の、画的な強さ。ほんとうはこの文脈で引用する句ではないかもしれないけれど、それでも持ってきたのには理由がある。同世代の俳人として森の句に触れてきた筆者として言えば、彼女は動物を見るのが好きな俳人である。たとえば昨年度の俳句甲子園の優秀賞句に「背に水を撒けり大夕焼の象」、同じく昨年度の神奈川大学全国高校生俳句大賞の最優秀賞句に「鰐の背にたまつてをりし冬の水」がある。松山東高校は吟行を大事にしていると聞く。これらの句も動物園に通ったうえでの産物ではないか。一見頭で作ったように見える掲句も、吟行を通じて手にした「象の余生」の実感であるにちがいないと、これは鑑賞でもなんでもないただの傍白だけれど、そう思うのである。


 「あ」「見えた?」「見えた」「私も」流れ星  徳山高校(敗者復活戦)


 敗者復活戦の句(チームで一句のため作者は明らかにはされず、合作の可能性もある)。鍵括弧の使用自体はさほど目新しい趣向ではないが、その使用は効果的であり、よく見ている句だなと思わされる。上五「あ」の字足らずが「あっ」と書くよりもよりリアルな呼吸を生み出している。この会話が二人のものか四人のものか定かではないが、星を見る二人――恋人かもしれない――というまるでありふれた景よりも、友人四人で歩いている夜と見たほうが面白い。A「あ」B「見えた?」C「見えた」D「私も」。おしゃべりな女子高生の仲のよさが、会話そのもののデッサンによって立ち上がっている。


 ああ、喋りすぎたかもしれない。そう思ったところで試合のことをほとんど書いていないことに気が付いた。といっても先に記した事情で、旭川東がベスト6で惜敗する前の試合を知らないので書けることは限られている。あえて記憶に残る一試合を挙げるならば、準決勝、愛光高校VS洛南高校Bの第4試合である。洛南高校Bに二勝を許してあとのない愛光高校が出した句に会場はどよめいた。


 活動写真の家族の正座百日紅    野嵜 大也(愛光高校)


 高校生が活動写真を持ってきたか、と思った。審査員の中原道夫や正木ゆう子も試合後に揃って「自分たちも活動写真は知らないのに」という旨をコメントしている。というか現役高校生のなかには活動写真が何なのか知らない者も多くいた筈である。そう断定せんとする根拠がある。試合を聞いていくうちに判明したが、両高校の選手たち自身が活動写真をよく分かっていなかった。洛南高校Bの「活動写真ってトーキーのことだと思いますが・・・・・・」という正確ではない発言から試合は始まる。愛光高校は「むしろ一般的には無声映画を指す言葉だ」と指摘はしたものの、ディベートが進むにつれ「家族のようすを撮ったもので、めったに撮るものではないから緊張して正座している」「作者はyoutubeで芥川龍之介の生前の映像を見たりするのが趣味」という説明を展開する。誰も指摘しなかったけれど、愛光高校の言いたかったのは活動写真ではなく家庭用8ミリのことではなかったか。NHK『探検バクモン』第6回「究極のお宝映像を発掘せよ!!~NHKアーカイブス」(2012年6月6日放送)に久米正雄が個人的に撮影した「芥川龍之介の木登り」の8ミリが出てきたのを思い出す。果たして愛光高校の選手が趣味で見た動画が久米の8ミリと同一かは知らないが、youtubeで見た芥川が掲句の原点だとしたらやはり「活動写真」の語は的確ではない。
 
 それでも、この句は勝利した。洛南高校Bの句は「遠雷やはたと倒れる写真立て」(千貫幹生)で、審査員の旗は愛光高校に10本、洛南高校Bに3本揚がった。その理由は作品点そのものの高さにある。愛光高校の作品点の合計は130点中96点、洛南は90点(鑑賞点も愛光高校が高いが1点差であった)。試合後の評において高野ムツオは「正座」は活動写真を見ている家族のものだとする鑑賞を述べている。それならば一つ目の助詞は「の」ではないのではないかとも思うが、活動写真にもっとも近い世代の高野(と本人が言っていた)の言葉だからその方が景としては強いかもしれない。筆者は言葉通り活動写真に登場する家族を思い浮かべたい。活動写真は虚構上にあるけれど、映像であるゆえにそこには現実の空気感がうつりこんでしまっている。ある家族の姿に垣間見る戦前。詠者がyoutubeで古い映像を探すのはきっと、過去をのぞき見する快楽を知っているからであろう。だからこの映像が活動写真であろうと8ミリであろうとそれは問題ではない。詠者は実感を書ききっている。掲句がいきいきとして我々の目に映るのはそんなところに理由がある。



 毎年、俳句甲子園の季節となるたびにOBOGたちはこんな言い方をする。「今年はどんな句に出会えるだろう」。次から次へと俳句が語られるこのイベントの楽しさを言い得ている。そして俳句甲子園は幕を閉じ、こうつぶやかずにはいられなくなる。来年はどんな句に出会えるだろう。また、行きたい。 


☆堀下翔(ほりした・かける)
1995年生まれ。旭川東高等学校文芸部OB。「里」「群青」同人。現在、筑波大学に在籍。


2014年9月5日金曜日

「第十七回松山俳句甲子園・旭川東高等学校参戦記②」 ~木村杏香~

 

決勝トーナメント二回戦は同じくJ会場。初出場の石川県立金沢桜丘高校との対戦だった。私たちと同じく女子五人メンバーのチームで女性らしい句、ディベートで試合が進められていった。兼題は「柿」。審査は高柳克弘先生、田中亜美先生、西村和子先生、岸本尚毅先生、木暮陶句郎先生にしていただいた。
 

  もうだれもいない集落柿の秋     渡部琴絵
 

先鋒戦は白チーム桜丘高校の習い事に大忙しの女の子を詠んだ軽快なリズムの句に対し、紅チーム旭川東は集落の過去の繁栄を思わせるような一句だ。渡部が得意とする軽い喪失感を漂わせるような句風で勝負に挑んだ。さっきまでは予選突破さえ不安視していたのだが、ここまで勝ち上がったらもう勝ちたい気持ちは止まらない。そんな思いが集中力を強くしたのか、先鋒戦は旭川東が勝利した。

このまま波に乗りたい次鋒戦。しかし、気持ちだけが先走ったのか、次鋒戦は桜丘に軍配があがった。やはり柿がない北海道では句作だけでなく鑑賞も難しい。柿の種を飛ばすという楽しさ溢れる桜丘の句が勝利した。

中堅戦は旭川東が勝利し、副将戦では桜丘が勝利した。ここまで二対二でどちらもゆずらず大将戦までに持ち込んだ。
 

  おつかいのおまけや独楽に似たる柿     池原早衣子
 

安易な表現を使えばメンバー全員が大好きな句である。大将戦に至るまでに早く勝ってしまいたいという気持ちもあったが、やはりリーダー池原の句でディベートがしたい。準決勝進出をかけたこの句で、自分たちの句の魅力をもっと知ってもらいたい、という純粋な気持ちに戻った。しかし、やはりどちらのチームも緊張しており、自然体なディベートには至らなかった。桜丘の句の、竹竿で柿を採るという景がディベートを通してうまく結べず、季語の研究不足を実感した。大将戦は桜丘が勝利した。この時点で旭川東は決勝トーナメント二回戦敗退に決まった。

 

八月二十四日の敗者復活戦で、旭川東は選抜六チームの中に入ることができなかった。今年からルール変更により、敗者復活戦は句点の高い上位六チームのみしか松山市総合コミュニティセンターの舞台での質疑応答を認められなかった。自分たちの句を多くの人に見てもらいたいという思いで、この場をお借りして敗者復活戦兼題「流星」の句を発表させていただく。
 

  空も野も一つになりぬ流れ星     池原早衣子
 

 今年の松山俳句甲子園は、優勝は開成高校、準優勝は洛南Bとなった。この場に立ちたかった、立てなかったという悔しさを噛みしめながら試合を観戦した。これからに向けての勉強もあるが、この句好き、おもしろい、とメンバー同士で言い合うのも観戦の醍醐味であり、多くの優れた句との出会いとなった。後日発売される、全チームの俳句が載った公式作品集が待ち遠しい。
 

 なお、Jブロック審査員特別賞(ディベート賞)に旭川東から池原早衣子が選ばれた。
 

 フェアウェルパーティーは熱い試合を終えての充実したひとときとなった。勝ったチームも負けたチームも日頃の活動を話し合ったり、連絡先を交換したり・・・。写真俳句ゲームをしたり、団扇にお互いのメッセージを書き合ったり、運営Tシャツが欲しいとスタッフさんを困らせたり(これは筆者だけ)もした。時間を惜しみながらの場であった。

 今年は十七回という記念大会であり、「人が死ぬのには十分な時間」という夏井いつき先生の言葉には胸にこみ上げてくるものがあった。筆者は俳句甲子園と同じ十七歳である。ということはつまり、筆者の一つ下の代は産まれる前から俳句甲子園があったということになる。この先、私達出場選手の子供の代からも俳句甲子園出場選手が出るかもしれない。そんな遠い未来のことを思いながら、今年の俳句甲子園は幕を閉じた。
 

 十二年連続出場の常連校旭川東。そう呼ばれることが今まで多々あった。全国大会に連続出場しているが、ここ数年では成績が伸び悩んだ。今年の成績(決勝トーナメント二回戦進出)は第七回大会と並ぶ、過去最高の成績となった。これからは常連校ではなく、強豪校と呼ばれる存在になっていきたい。先輩方が受け継いできた伝統を途切れさせることなくかつ、今の状況に満足することなくこれからも活動に励んでいく。
 

 今回、こうしてブログに参戦記を載せてくださった俳句集団【itak】の皆様、本当にありがとうございました。【itak】代表の五十嵐秀彦先生には地方大会の映像を送っていただいたり試合中にSNS等で応援の声をかけていただいたりなど、本当に励みになりました。また【itak】にお邪魔させていただくことがあると思いますが、そのときはよろしくお願いします。 

 

 ここまでの拙い参戦記を読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。私たちは俳句が大好きです。そして数多くの俳縁に恵まれて本当に幸せです。俳句に関わるすべての方々に、 感謝の気持ちでいっぱいです。最後までお読みいただき、本当にありがとうございました(了)。 


☆木村杏香(きむら・きょうか)



 1997年生まれ。旭川東高校2年生

 俳句甲子園第16回・第17回出場。 
  
 

2014年9月3日水曜日

「第十七回松山俳句甲子園・旭川東高等学校参戦記①」 ~木村杏香~



六月の北海道地方大会に優勝し、今年も旭川東が十二年連続全国大会出場を決めた。それから二ヶ月、全国大会のための句づくりとディベートの練習、季語の研究などさまざまな努力をしてきた。 
 
 
俳句は五・七・五の十七音の文学。今年は記念すべき十七回大会である。旭川東からは全国大会三年連続出場の池原早衣子をリーダーに、昨年全国大会出場の渡部琴絵、木村杏香と、昨年北海道地方大会旭川東Bチームとして出場の荒井愛永、平田莉々という女子メンバーが揃った。 

旭川東は昨年、予選突破を成し遂げることができなかった。ウェルカムパーティーの場では、全国大会出場経験のある三人は昨年の映像を観るだけで悔しさが込み上げてきた。ほかの二人は意外と終始リラックスしておりその様子に助けられ、予選組み合わせの発表に動じることなくウェルカムパーティーや相手チームへの挨拶を終えた。 
 

八月二十三日、いよいよ大街道での松山俳句甲子園が始まった。予選Jブロックは旭川東チーム、全国大会初出場の慶応義塾湘南藤沢高校、地元愛媛の強豪校愛媛県立松山東高校Bだ。審査は高柳克弘先生、木暮陶句郎先生、河西志帆先生、田村七重先生、山内和子先生にしていただいた。 


第一試合は紅チームの慶応義塾湘南藤沢と白チームの旭川東。兼題は「夜店」。夜店のにぎやかさと少しの寂しさを両方表現した慶応義塾湘南藤沢に対し、旭川東は幸福の木や星図など、夜店にありそうなものを詠み込んだ句を揃えた。
 

  大木にもたれて夜店眺めたる     池原早衣子
 

先鋒戦はリーダー池原の句で始まった。大木という北海道ならではの夜店の景が見えてきそうな一句。慶応義塾湘南藤沢の田村明日香さんの的確な攻めに負けじと、こちらも冷静にディベートを進めていった。緊張の初戦は白チームに軍配があがった。

これで旭川東に勢いがついたものの、次鋒戦で留学を決意した友を見送るという、国際色豊かな校風の慶応義塾湘南藤沢の句に旗が多くあがり、慶応義塾湘南藤沢が勝利した。

いよいよ大将戦。これで勝利しなければ予選突破の可能性はぐんと下がる。ここはなんとしても勝ちたい。この試合は両句の言葉の必然性、景のブレについてのディベートが中心となった。勝利したのは旭川東。審査員の高柳克弘先生の講評では、どちらの句にもまだ改善点は残るということであった。ぎりぎりの戦いであったが、兼題「夜店」の試合は旭川東が勝利した。
 
 

第二試合は紅チームの松山東Bと白チームの慶応義塾湘南藤沢。兼題は「炎天」。戦争詠や現在進行中の新島の現象など様々な話題を詠む松山東Bに対し、炎天の熱が伝わってくるよう季語をしっかりと詠んだ慶応義塾湘南藤沢。この試合は松山東Bに軍配があがった。
 

第三試合は紅チーム旭川東、白チーム松山東B。兼題は「飛魚」。一、二年生の初心者が多い松山東Bであるが、リーダーの光藤多恵さんを筆頭に活気溢れるディベートで場は進められていった。飛魚どころか、海もない内陸部の旭川。そんなことにはめげず、飛魚の動画を観たり飛魚の特徴を調べたりなど、季語の研究をしっかりした。先鋒戦はこちらに軍配があがった。


  飛魚の跳ねて星座となりにけり     木村杏香
 

次鋒戦は夜空に高く飛び上がった飛魚の姿を詠んだ旭川東に対し、松山東Bは競りで売られる飛魚の静かな様子を詠んだ。対象的な句であるため、他の魚でもよかったのではないかというディベートになった。結果は旭川東に旗が五本上がり、ストレート勝ちで旭川東が予選突破を決めた。 

手応えのあった相手に勝ったことにより、この先どんな相手に当たっても自分達らしいディベートができるという自信がついた。旭川東、決勝トーナメント一回戦進出である。

 

決勝トーナメント一回戦は同じくJ会場。gbgyhy予選Iブロックを勝ち抜いた山口県立徳山高校との対戦であった。今年初めての開催であった山口大会で優勝し、全国大会初出場の新鋭徳山高校。兼題は「汗」。審査は高柳克弘先生、西村和子先生、木暮陶句郎先生、佐保光俊先生、河西志帆先生にしていただいた。 

先鋒戦は紅チーム徳山高校のスポーツ後の清々しさを詠んだ句に対し、白チーム旭川東はプラカードガールの凛とした姿を詠んだ句であった。どちらも高校生らしい青春性溢れる句同士で始まった。先鋒戦、勝利したのは旭川東だった。
 

  地図に汗落ちて見知らぬ土地にいる     平田莉々
 

次鋒戦は平田の句。言葉の必然性と説明的ではないかというディベートが主となった。初めての土地で途方にくれる作者の様子と汗を詠みこんだ、私たちにとっては自信のある一句だった。この戦いは旭川東が勝利した。また、のちに高柳克弘先生から「高校生ならではの進路に対する不安感のようなものも見えてくる一句」との評価もいただいた。
 

  朽ちかけのスコアボードや汗にじむ     荒井愛永
 

中堅戦、徳山高校の繊細な恋人同士を詠んだ句に対し、旭川東は練習熱心な野球少年を詠んだ一句。作者が本当に言いたいことを詠みきれていないのではないか、との指摘がお互いの句に出た。徳山高校の野名美咲さん、紅里さん姉妹を中心に、さまざまな視点からのディベートが繰り広げられていった。勝ったのは旭川東。この時点で旭川東の決勝トーナメント一回戦の勝利が決まった。
 

慶應義塾湘南藤沢高校と対戦したときもそうであったが、徳山高校のディベートの際に、メンバー同士がアイコンタクトをとったり、小声で話し合ったりする姿がしばし見られた。メンバーの俳句はチームの俳句。この日一日だけで、自分たちの俳句の良さをチーム一丸となって伝えようとする光景が何度も見られた。そんなディベートの姿勢をこれからの試合に活かしていこうと、二回戦進出に向け自分たちを奮い立たせた(つづく)。

 

☆木村杏香(きむら・きょうか)


 1997年生まれ。旭川東高校2年生
 俳句甲子園第16回・第17回出場。
 
 
 

2014年9月1日月曜日

震災俳句の難しさ ―『のいず』創刊号 を読む― ~鈴木 牛後~



高井楚良、澤田和弥両氏が発行する同人誌『のいず』創刊号を読んだ。

両氏は浜松市在住とのことで、関東でも関西でもない「ローカル」が強く意識されている。このことは、浜松以上にローカルな北海道に住む私も(もちろん【itak】も)つねに意識していることだ。まずは、ローカルから発信する同人誌の発刊を喜びたいと思う。

一読興味を惹いたのは、高井楚良氏の『「黒い浪」を読む』という俳句作品と、同じ作者による論考『読み手がいない(一)「新聞俳壇」』だ。後者は、全国紙各紙の新聞俳壇に掲載された、東日本大震災をテーマにした多くの句から、俳句とは何かを考察している。

高井氏が言いたいことは、新聞俳壇の選は、選者の思いで行われるもので、句の良し悪しがそれで決まるのではないということなのだろう。大家の選が絶対なのではなく、一人ひとりが自分の選をするべきなのであり、それをどこかに委ねてしまうのは思考停止にほかならない、と。

震災句を安易に作るのは思考停止だが、まったく視野の外に置いてしまうのも思考停止なのかもしれない。私は後者のスタンスで今まで過ごして来たように思うが、高井氏の俳句からは、少なからずそのような私の意識が攪拌されるのを感じた。


 想定の中の暮らしや冷蔵庫


「想定外の津波」という、(多くは批判的な文脈で)何度も耳にしたフレーズをもじっている。「想定の中の暮らし」と言うことで、想定外の事態とすぐ隣り合って暮らしている現実を露わにしているのだ。冷蔵庫という、あって当たり前、なければすなわち非常事態となる器具と取り合わせることでその危うさを際立たせている。


 東北を遙か北窓を開きけり


遠方の地から詠んだ句として素直に読める。被災地から遠くあってどうしようもないけれど、北窓を開いて春の光を入れるという行為に思いを託しているのだろう。
それでもなお限界も感じた。


 春泥やかたち変らぬランドセル


のような句は


 喉奥の泥は乾かずランドセル   照井翠


のような切実さを ―俳句を通してでしかないにしても― 一度は感じた身としては虚しく感じてしまう。それだけ震災を詠むというのは難しいことなのだと改めて感じた。私自身はやはりこれからも作らないだろうと思う。


☆鈴木牛後(すずき・ぎゅうご 俳句集団【itak】幹事 藍生)




 

※『のいず』購読お申込は以下にお問い合わせください。

発行人  高井楚良  澤田和弥
E-mail 
aroundenduser@gmail.com
年間購読料 500円(年二回発行)