2025年3月13日木曜日

第74回イベント抄録 「旅の思索者 黒田杏子の人と俳句」 20240713@道立文学館




 俳句集団【itak】の第74回イベントが2024年7月13日(土)、道立文学館(札幌市中央区)で行われ、itak代表の五十嵐秀彦さんが、「旅の思索者 黒田杏子の人と俳句」と題して講演しました=写真①=。五十嵐さんは、昨年3月に84歳で亡くなった黒田さん主宰の「藍生俳句会」に30年前に入会。講演では、「師匠」である黒田さんの句歴や作品の背景、弟子としての思い出などを語りました。講演の抄録を紹介します。

黒田杏子さんは昨年3月13日に突然、亡くなりました。30年近く、黒田先生のもとで学び、意識しながら俳句をやってきたので、僕自身も喪失感が大きい。どちらかというと思い出話になってしまうかもしれません。ただ、僕は黒田先生から、個人的に託されていることがある。できるだけ多くの方にお伝えしなければと思い、きょうお話します。 

■現俳協青年部のインタビュー 

2021年に(黒田先生が編者の)「証言 昭和の俳句」という本が、20年たって増補新装版となった。これが話題になり、現代俳句協会の青年部が、この本をテーマにして、(黒田先生の)インタビュー動画を作りました。その中から黒田先生の発言を少しだけ紹介します。 

黒田杏子 俳句は母もやっており、子供のころから親しんでいた。東京女子大に入り、(山口)青邨先生に会って、すばらしいと思い、「(俳句を)生涯ずっとやる」と言った。だけど、広告会社に入ったとたんに、生涯を貫く唯一の表現手段なのか、分からなくなった。それではっきりとやめた。染織、染め物、陶芸、劇団民芸の劇作‥。いろんなところを訪ね、調べた結果、自分が一生涯続けていける表現手段として、俳句が一番良いとやっと気づいた。それで青邨先生に再入門を言いに行った。「今後は会社を続けますが、すべての時間を俳句に振り向けて頑張ります」と言ったところ、先生は「勉強しすぎて死んだ人は聞いていないから、しっかりやってください」と言った。それまで季語の現場をやって、自然と出合うことを大切にしていたのに一切やらなくなると、意欲的に動いているつもりでも、自分の心身の状況がやせていくということに気づいた。俳句を作り続けること自体が、自分の人間性、精神、肉体を豊かにすると直感的に感じ、戻ってきた。俳句をいったんやめた人でも、俳句はだれのことも拒否しない。介護など、今は俳句をやめている人も、また戻って生涯の文芸手段となることに期待する。 

師弟関係は大切だし、信頼できる師に会って、その人に寄り添って勉強するのは良いと思うが、師弟関係を求めないで単独で活動する人はたくさんいる。師を求めないで、単独で行くのは構わない。ただ、私自身は、青邨さんと出会い、とても幸せだった。(師をつけるか単独で活動するか)どちらのほうが良い、ということは、絶対にない。ただ、自分自身の性格、人間のありかたに対して、いい形で助けてくれる、バックアップしてくれる先達には会うべきだと思う。 

ほんの一部ですが、俳句という表現手段を見つけるまでの迷いや、師弟関係の重要性を強調しつつも師につかない生き方も肯定する思いなどが語られていたのが印象に残りました。

 ■10年間の彷徨 

黒田先生は、俳句をやめていた10年間の空白があります。就職と同時に俳句をやめて、1968年に再入門するまでに何があったのか。この10年間が、その後の彼女の活動に非常に大きな影響を与えた。黒田杏子という人は、精神力の強い人。俳句作家、表現者としての強さを持っている。その強さは、この10年にあったのではないかと思います。 

「安保闘争と樺美智子」「九州での三池紛争支援」「博報堂入社、宇野重吉の劇団民藝に参加」「俳句に復帰を決心」「山口青邨に再入門」-とだいたい、こういう10年間。1960年の第一次安保闘争。日米安保条約の批准、アイゼンハワー米大統領訪日を目前に控えた同年6月15日、学生ら群衆、デモ隊が国会前を包囲した。黒田先生は、東京女子大の4年生でした。特にアクティブな活動家ではなかったようですが、当時の状況に動かされ、彼女もこの群衆の中にいた。このとき、東大4年生の樺美智子さんが、国会議事堂突入中に命を落とす。黒田先生は、お医者さんの娘さん。まあまあ良い家庭のお嬢様だったが、このとき初めて社会の現実、残酷な顔を見た。大きな衝撃を受けた。強大な力で圧迫されている弱者のために、自分は何ができるのかを考えました。そのとき彼女がどうしたか? この時期、福岡県の三井三池炭鉱で大きな労働争議「三井三池争議」がありました。1953年、経営合理化のため指名解雇を実施した会社側と労働組合の対立が激化。59年から60年にかけて無期限ストライキとなり、長期化。組合員家族が困窮するという事態になった。全国から労組関係や学生たちが支援に集まりました。会社側が暴力団員を雇って、組合員の活動家を殺すという事件も起きている。黒田先生は、親たちが紛争に行ってしまい、置いてけぼりの子供たちを守る運動をしていた。子供たちと一緒の写真がありますが、黒田先生は、この写真と一緒にハガキをつけて私に送ってくれた=写真②=。「ここが私の人生の分岐点、スタート。誰が撮ったのか小さなフィルムが残っていて‥」。ここがスタートだという思いがあったのでしょう。青邨の再入門に行った年(1968年)ではない。人生の分岐点がここだったと言いたいようでした。自分にとって社会は他人事ではない、人は何のために生きるのかを、考えざるをえなかった。後になって、「苦海浄土」の作者、石牟礼道子さんや小田実さんらと交流を結んだのも、この時期が、彼女の下地としてあったと思います。 

大学を卒業して博報堂に入社する。博報堂初の女性の総合職。初のキャリアウーマンと雑誌の取材を受けたという話もあります。会社に入り、仕事は嫌いではなかったが、自分の生涯をかけるものがほしかった。「自分はプランナーだったので、やりがいがあったけど、どんなに頑張っても、その仕事の成果に自分の名前が出てこない。常に黒子でしかない」と言っていました。自分の名前でものを作りたいとの思いが強かったと思います。

劇団民藝には、俳優ではなく、脚本家の枠で応募しました。本人の話によると、ものすごい倍率で、いろんな演劇青年がたくさん来ていて、(オーディションでは)演劇論をとうとうと話していた。そんな中、「あなたの売りは何ですか」と聞かれて、黒田先生は「体力です」と答えたそうです。その言葉を宇野重吉が大変気に入って、「こういう人もいいんじゃないか」と言って、採用が決まっちゃう。 

ところが民藝では、脚本家は自分の書いた劇でなくでも、全国を回る旅に同行するらしいです。会社の仕事も好きで、民藝に相談したら、1年待ってくれると。それでいろいろ考えたが、やっぱり民藝の活動は無理だと。会社員と民藝の両立ができなくなり、再び俳句の道に戻ろうと考えます。俳句は、東京女子大時代に、山口青邨が大学に来て句会を指導しており、青邨の結社「夏草」にも正式に入っていました。ただ学生運動に行ったり、就職したりして、いろんなことに手を出して、すっかり俳句はご無沙汰していた。というか、「俳句は生涯かけるものではないのではないか」と思っていた。でも、働きながら何をやるかを考えたときに、結果的に俳句は自分の名前が必ず付くんだと気が付いた。青邨に「勉強しすぎて死んだ人はいないから大丈夫だ」と言われたことが、大変心に残っていたようで、よく話していました。 

その後、真っ先にやろうと思ったのが、日本列島桜花巡礼。日本中の桜を見て回って俳句を作るということを、27年間続けた。なぜ桜かというと、桜は一度に咲くわけではない。時間差があって、毎年、どこか1か所に行く。会社に連休とって2、3日行って、また来年、ここ行って、あそこ行ってと分割して行きやすいと言っていました。 

この10年間という迷いの歳月が、その後の黒田杏子という生き方を決めたと思います。 

■寂聴と兜太の出会い 

2人の重要な人物との出会い、瀬戸内寂聴と金子兜太の出会いについて話します。寂聴さんとの出会いは、実は良くわからない。大学の先輩ではありますが、ほかにつながりは特にない。個人的に寂聴さんに会いに行ったのですが、理由は話していません。そのころ、会社で、彼女は総合職、キャリアでしたが、労働組合に積極的に参加した。そのことを会社に目をつけられ、プランナーから経理に回されたことがあった。たぶん悩んでいただろうなと思います。ちょうどその時期、寂聴さんのところに行ったのではないかと。寂聴さんは、黒田先生が俳句を作っていることを全く知らなかった。そして、なぜが話を親身に聞いてくれた。すっかり寂聴さんにほれ、寂聴さんにも気に入られました。一緒にインド旅行するなど、寂聴さんが亡くなるまで、先達として、友人として交流が続いたことは皆さんもご存じかと思います。 

もう一人、金子兜太です。当時、兜太は朝日カルチャーの講座を持っていて、そこに受講に行きます。なぜ行ったのか。それは、この兜太の句です。「デモ流れるデモ犠牲者を階に寝かせ」。衝撃を受けた。この場所に兜太だけではなく、私もいたと。樺美智子さんが頭にあったんだと思います。樺さんの死について、黒田先生はたくさん句を作っていますが、花などに託して詠む句が多い。ところが、兜太の句は、そのままの句、迫真の句ですよね。俳句でこういうものができるのかと驚いた。黒田先生の面白いところですが、自分もこういう句を作りたいと思ったのではない。自分はこういう句はできないし、作ろうとも思わないけど、この句を作った兜太という人物に非常に興味がある、知りたいと思った。行く前に、一応、先生の青邨さんにお伺いを立てようと思った。(青邨は)金子兜太についてどう思っているか。(伝統俳句の)ホトトギスの青邨ですから、「兜太?そんなもの」と言うと思ったら、青邨は「兜太くんは、その人の道をいけばいい。あの人には、それが可能だ」と言って、了解をしてくれた。兜太との付き合いが長く続くことになったのも有名な話です。 

 ■一遍上人に傾倒 

もう一つ、黒田杏子を理解する上で重要なのが、一遍上人だと思います。本人から「一遍を知ったことが大変大きなことだった」と直接、聞いているので、そうだろうと考えます。栗田勇の「一遍上人 旅の思索者」。この本を読み、一遍上人にほれ込んでしまった。(松山の)宝厳寺に、一遍上人像があり、拝観して、その像の姿にも感動する。仏教的な教えというよりも、一遍の遊行についてひかれた。家はなく、自分の弟子たちを連れて回って、日本中を旅して命を落とした信仰者。特筆すべきは、日本史上初の絶対平等を主張した人です。命あるものはすべて平等。被差別民もハンセン病の患者もいた。「独りむまれて独り死す 生死の道こそかなしけれ」という一遍の言葉。だれもが一人で生まれて一人で死んでいく。その生き方に共鳴をした。結社藍生は、会員全員平等を最初から言っている。いろいろ理由はありますが、一つは一遍の考えへの共鳴もあったようです。一遍は死ぬときに、時衆はただちに解散しろ、寺や私の像も作ってはいけないと言った。ところが寺も立っちゃうし、像もできるのですが。黒田先生が「藍生は一代限り、私ができなくなったら解散」と言っていたのも、これが一つの背景にあるのかなと思います。宝厳寺の木像は、歴史的な資料(国の重要文化財)でもありましたが、2013年8月10日に火災であっさりとなくなってしまった。その時に黒田先生の作った句が「灰燼に帰したる安堵一遍忌」=写真③=。「安堵」としたところに、一遍上人への理解の深さが現れているような気がします。

私は「黒田杏子と一遍上人」という黒田杏子論を藍生の論考に書きました。黒田先生は僕のことを、俳句はたいしたことはないと思っていたみたいですが、評論は非常に期待していたようです。ちょくちょく連絡が来て「次、何を書くの」と言われていた。「好きなだけ書きなさいよ、全部載せます」といつも言ってくれた。弟子の自分が、先生の生きているときに先生の論文を書く。正直、勇気がいることでした。プレッシャーはあったが、何とか書きたい。ただ、礼賛、太鼓持ちとなるものは書きたくない。客観的に書きたい。先生に電話をして、名前は呼び捨て、先生が気に入らないことも書くかもしれませんが、それはおおめに見てくださいと言うと、先生は「当然です。それでいいです。好きに書いてください」と言われた。ただ、普段、先生は男っぽい人、間髪入れずにものを言う人が、黒田杏子論を書きたいと伝えたこの時は、はっと息をのむ雰囲気が電話から伝わってきました。「嫌だ」と言うのかなと思ったが、やや間があって、「ぜひ書いてください」と言われ、書かせてもらったことも思い出です。 

■思い出すこと 

2018年に「藍生イタック合同イベント」がありました。このイベントも、黒田先生の自由さを表していました。藍生は「全国の集い」を毎年、日本各地、持ち回りで行います。黒田先生に「北海道でやって」と言われ、僕は「北海道は藍生の会員が少ないから、とてもできない」と答えた。そうしたら「藍生のことはどうでもいいのよ」。藍生の全国の集いで、藍生はどうでもいいと言われてびっくりした。「あなた、友だちたくさんいるでしょ。一緒にやってくれたらいい。どこかに藍生って名前があればいいのよ」と言われ、「じゃあ、itakと合同でいいですか」と答えたら「どうぞどうぞ」と。「開かれた集まりにしなさい、北海道中の詩人が集めなさい」と、とんでもないことを言われて非常に面食らった。黒田先生や夏井いつきさん、吉田類さんも出席しました。みんな、ギャラなしで出てくれた。黒田先生の自由な態度がみなさんをひきつけたのだと思います。 

 一周忌の時にお墓ができました。東京本郷の法真寺にあります=写真④=。東大の赤門の前にあります。お墓なのに句碑。「花巡るいっぽんの杖ある限り」。先生らしいです。

 「斃れたる後の月夜の一遍忌」。これは亡くなった後に出た遺句集「八月」の中の句です。黒田先生は、山梨県に講演に行き、講演が終わって帰ってきた翌日の朝、突然体調不良になりました。甲府市内の病院に運ばれ、さらに次の日の朝、息を引き取った。旅に倒れて人生を終える。いかにも黒田杏子らしい、帰依するとまで言っていた一遍上人と重なる人生だったなと思います。 

きょうの話が、みなさんが句を書くときのヒントになればと思います。