俳句集団【itak】第25回句会評④
2016年5月14日
橋本喜夫(雪華、銀化)
産声は光の粒子聖五月 高畠葉子
名中七まで秀逸。音を光の粒子に変換した詩的変換装置はすばらしい。そこで聖五月これはどうか。結社によるかもしれんが飛ばしたほうがよしとする鷹系の結社なら 近すぎるといわれる。私の句も鷹系のひとにはいつも近すぎるといわれることが多い。離れすぎると分裂気味の出来になるしここはむずかしい。聖五月=マリア月 聖母マリア 産声 やはり 近いか 風の季語程度でよかったのかもしれぬ。
水芭蕉動き出しけり水の音 グエン・ヴー・クイン・ニュー
大変格調のたかい句。日本人の作者でないのが驚きだ。なぜ私はとらなかったか?ぶつぶつ切れた感じがした。もちろん意味のうえではよくわかるのだが、名詞ではふつう切れが入るので三段入れ といわれてもしかたない。ここは 水音の動き出しけり水芭蕉 でもいいのかも。まあ好き嫌いあるね。古池や のイメージで作っているのだから、水の音で収めたい気持ちは理解できる。
春水をわし掴みして顔洗ふ 村元幸明
中七のわし掴みしてがこの句のコア。洗面器に顔つっこんで手で洗うときに、この発想に至ったのであろうが。水をわしづかみにするという表現は新しいと思う。ただしこのままだとあまり切れがなくて韻文性が感じられず、報告調に読める。一案だが 顔洗ふわし掴みする春の水 とすると良くなると思うのだが。
さつぽろに初夏の時鐘を放ちけり 平 倫子
時計台の時鐘いつがいちばんふさわしい季節だろうか などと思う。やはり札幌自体が目覚める感じの初夏がふさわしい。平凡なようだが格調高く詠まれている。もし 気になりとすれば「に」であろうか トポスを限定する助詞であるが、ここは「へ」と広がりを持たしたほうが良いのではと思った。ふきのとうの名曲「初夏」を歌いたくなった。
(つづく)
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