俳句集団【itak】第27回句会評④
2016年9月10日
橋本喜夫(雪華、銀化)
尺蠖は一尺すすみもの思ふ 鍛冶 美波
尺取虫はあまり見ないと思うが、なかなか魅力的な虫でもあり、季語でもある。歳時記の例句をみてもさほど良いものはなく、掲句はかなりの出来だと思う。進んでいるさま、とまっている様、人生を絡めての表現などはあるが、一尺すすんでは止まって、ものを思うのである。なんと哲学的ではないか。進み方が尺をとるやうに進みからこの名があることは有名だが、木の枝に止まるとくの字に静止してまるで、木の枝の一部に見えるそうで、そこに土瓶をまちがって掛けると落ちてしまうので「土瓶割り」という別名もあるそうな。
いずれにしろ、動いてるところ、止まっているところを同時に詠み込みしかも、デカルトも見え隠れするかなりの佳句である。諧謔もあるし。
なまくびの躍り出たるや菊人形 只津 心丈
菊人形展でのひとこまであろうが とても面白い、中七の「躍り出たるや」が面白すぎる感じもあるかもしれない。それと実景としてどういうこと?と思う。なまくびの部分がぽろっと落ちてしまったのか?なまくびの部分がなにかの仕掛けでほんとうに躍り出るのか?想像できる景を見たことがないので理解できない。中七がもう少し大人しい表現でも十分に俳句として通用した気がする。私が「もう少し大人しく」とこのコーナーで語ることは珍しいとは思うが。 たとえば 「なまくびのすこしかたぶく菊人形」 とか 「なまくびの縫い目見えたる菊人形」とかでも。。。
鯖雲や蹴り上げにける石一顆 角田 萌
「石一顆」の措辞をまず使いたかったと思う。この措辞はいいと思う。空に蹴上げるのもいい。石を一顆空高く蹴り上げるということは基本的に、鬱屈した精神状態と想定される。もしくはつまらない気持ち、満たされない気持ちなど であろう。そうなると鯖雲もしくは鰯雲でいいのか ということである。加藤楸邨の句でも有名で、なにか満たされない鬱屈とした気持ちに鰯雲、鯖雲は使われるが、逆に予定調和感がある感じが私はした。むしろ秋のスコンと抜けた気持ちのよい秋晴れの空の方がいいのではないか 「秋高し」だと 蹴り上げるに付きすぎなので 「秋旻」などではどうかなと思う。「秋天」でもよい。
風吹かぬことのさびしき厄日かな 天野 浩美
厄日 二百十日はもちろん、何か起こること、台風の季節でもあるので、本当であるならば中七は「ことのうれしき」になるはずであるが、それでは当たり前すぎるし、そこで逆に風が吹かないことが さびしい と表白している。このアンビバレンスな表白がこの句のコアである。
天高く独身こじらせてをりぬ 三品吏紀
私がいただいた句。こじらせ女子など こじらせる という措辞は最近ずいぶん使われているが、もともとは「無理をしたり、処置を誤ったりして症状を悪くする」という医学的な使い方と「対応をあやまり事態をやっかいな状態にすること」で、もともとは 人間のあり方や生活を表現する言葉ではないものを流用する面白さがある。まず中七以下の自虐的表現に対する「天高く」の季語の適切さを思う。それと中七から座五にかけての破調的な表現がその自虐的内容とも相俟って、適切に面白く仕上がっていると思う。
十三夜黒猫夜にのしかかる ナカムラアキコ
「天」でいただいた。黒猫が夜にのしかかる という表現は詩的だと思う。十三夜、黒猫どれも黒、闇、夜、怪しいなどのキーワードで結ばれる。そしてそれらの闇のかたまりが全部さらに夜にのしかかってくる というのだ。私は老犬と二人暮らしだが、寝ているといつも胸の上に載ってきて体を伸ばす、猫のように。だからのしかかる感覚が私にとってはリアルだ。この句の場合はなんと重苦しくも、つやっぼい重さではなかろうか。「十三夜」は旧暦九月十三日なので、秋もすっかり深まり、その年の秋の最後の月である。名残の月とも呼ばれる。そういう意味では十三夜は月の季語の中では私はいちばん(きぬぎぬ後朝)の感覚が強い季語だと思う。そこに「のしかかる夜の重さ」である。軽薄な言い方をすれば「夜のいとなみ」が最もあう月が十三夜だと思うのだ。これだけ言えば私が天に採った理由がわかっていただけるであろうか。
尺取虫はあまり見ないと思うが、なかなか魅力的な虫でもあり、季語でもある。歳時記の例句をみてもさほど良いものはなく、掲句はかなりの出来だと思う。進んでいるさま、とまっている様、人生を絡めての表現などはあるが、一尺すすんでは止まって、ものを思うのである。なんと哲学的ではないか。進み方が尺をとるやうに進みからこの名があることは有名だが、木の枝に止まるとくの字に静止してまるで、木の枝の一部に見えるそうで、そこに土瓶をまちがって掛けると落ちてしまうので「土瓶割り」という別名もあるそうな。
いずれにしろ、動いてるところ、止まっているところを同時に詠み込みしかも、デカルトも見え隠れするかなりの佳句である。諧謔もあるし。
なまくびの躍り出たるや菊人形 只津 心丈
菊人形展でのひとこまであろうが とても面白い、中七の「躍り出たるや」が面白すぎる感じもあるかもしれない。それと実景としてどういうこと?と思う。なまくびの部分がぽろっと落ちてしまったのか?なまくびの部分がなにかの仕掛けでほんとうに躍り出るのか?想像できる景を見たことがないので理解できない。中七がもう少し大人しい表現でも十分に俳句として通用した気がする。私が「もう少し大人しく」とこのコーナーで語ることは珍しいとは思うが。 たとえば 「なまくびのすこしかたぶく菊人形」 とか 「なまくびの縫い目見えたる菊人形」とかでも。。。
鯖雲や蹴り上げにける石一顆 角田 萌
「石一顆」の措辞をまず使いたかったと思う。この措辞はいいと思う。空に蹴上げるのもいい。石を一顆空高く蹴り上げるということは基本的に、鬱屈した精神状態と想定される。もしくはつまらない気持ち、満たされない気持ちなど であろう。そうなると鯖雲もしくは鰯雲でいいのか ということである。加藤楸邨の句でも有名で、なにか満たされない鬱屈とした気持ちに鰯雲、鯖雲は使われるが、逆に予定調和感がある感じが私はした。むしろ秋のスコンと抜けた気持ちのよい秋晴れの空の方がいいのではないか 「秋高し」だと 蹴り上げるに付きすぎなので 「秋旻」などではどうかなと思う。「秋天」でもよい。
風吹かぬことのさびしき厄日かな 天野 浩美
厄日 二百十日はもちろん、何か起こること、台風の季節でもあるので、本当であるならば中七は「ことのうれしき」になるはずであるが、それでは当たり前すぎるし、そこで逆に風が吹かないことが さびしい と表白している。このアンビバレンスな表白がこの句のコアである。
天高く独身こじらせてをりぬ 三品吏紀
私がいただいた句。こじらせ女子など こじらせる という措辞は最近ずいぶん使われているが、もともとは「無理をしたり、処置を誤ったりして症状を悪くする」という医学的な使い方と「対応をあやまり事態をやっかいな状態にすること」で、もともとは 人間のあり方や生活を表現する言葉ではないものを流用する面白さがある。まず中七以下の自虐的表現に対する「天高く」の季語の適切さを思う。それと中七から座五にかけての破調的な表現がその自虐的内容とも相俟って、適切に面白く仕上がっていると思う。
十三夜黒猫夜にのしかかる ナカムラアキコ
「天」でいただいた。黒猫が夜にのしかかる という表現は詩的だと思う。十三夜、黒猫どれも黒、闇、夜、怪しいなどのキーワードで結ばれる。そしてそれらの闇のかたまりが全部さらに夜にのしかかってくる というのだ。私は老犬と二人暮らしだが、寝ているといつも胸の上に載ってきて体を伸ばす、猫のように。だからのしかかる感覚が私にとってはリアルだ。この句の場合はなんと重苦しくも、つやっぼい重さではなかろうか。「十三夜」は旧暦九月十三日なので、秋もすっかり深まり、その年の秋の最後の月である。名残の月とも呼ばれる。そういう意味では十三夜は月の季語の中では私はいちばん(きぬぎぬ後朝)の感覚が強い季語だと思う。そこに「のしかかる夜の重さ」である。軽薄な言い方をすれば「夜のいとなみ」が最もあう月が十三夜だと思うのだ。これだけ言えば私が天に採った理由がわかっていただけるであろうか。
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