句集『無量』の一句鑑賞
青山酔鳴
赤とんぼ無数失踪者無数 五十嵐秀彦
ほんの数年前まで、このひとの名前も存在も知らなかった。こうして句評を書かせていただけるようになるなど、出会いとは全く不思議なものである。
どちらかというと不純な動機で参加した初めての句会にあったのが掲句である(ここは若いひとも多く集う句会である)。「なんだか物騒な句だな」というのがその時に感じた印象である。
句集『無量』には季節は万遍なく盛り込まれ、読めば口角がすっと上がるような句も少なくないのだが、多くがそう云うようにやはり無常、寂寥、冬の乾燥した空気のようなものに支配されている感がある。掲句にしても、「失踪者」を持ち込むことで読者の心にチクリとしたものを否応なく打ち込んで来る。わかっていても自分ではどうしようもない出来事、問題として提示されても、だからといって自分に何ができるんだろうという無力感。新聞の見出しにあったとして、それを読んではいても、どうしようもないじゃないか。
だが、考えてみれば自分に縁のない人間とは実のところほとんどがそうであり、それらはすでに失踪者となんら変わらない位置にあるともいえないか。それらは都市の、地球の欠片のように無数であるだろう。掌の細胞は足の裏の細胞のことは知らない。だがひとつの身体の細胞として共に存在し、共に代謝していく運命ではあるのだ。
ちっぽけな赤とんぼ。実体としては捉えかねる失踪者。俯瞰されて、ともに無数。並べ置かれることであるいは遠い遠い相関が提示され、わが身もその一部であることを知らされる。掲句はそんな性質を持っているのかもしれない。
この句と出会って以来、多くの句座を共にさせていただくようになった。『無量』にはそれから詠まれた句も多く収録されており、感慨深く読ませていただいている。生意気をおそれずに思ったままを云えば、掲句以前と以降では、氏の体温が少し上がっているようにわたしには感じられる。出会った時「物騒」と感じた句は『無量』のなかで、むしろ逆のオーラを放っていると思えるように、わたしの感覚も変化した。これからも無数の赤とんぼ、無数の失踪者の貌が氏の言葉によって明らかにされていくだろう。まったくもって個人的な感想ではあるが、氏の選り出す言葉のひとつひとつが興味深くて仕方がない。
(おまけ)
ヨーロッパでは蜻蛉は「魔女の針」とも呼ばれ、嘘吐きの口を縫い付けるという迷信がある。あるいは魔女の針で口封じされた者が無数であるというオカルト句・・・あれれ?なんだかさらに物騒なような・・・。
☆青山酔鳴(あおやま・すいめい 俳句集団【itak】幹事・群青同人)
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