『 かをりんが読む 』 (その2)
~第9回の句会から~
今田 かをり
コスモスを倣えば君に成就する
「コスモスを倣」うとは、どういうことなのだろう。風に靡き合っているコスモスの、肩に力を入れない自然体を言っているのだろうか。そして「君に成就する」とは、「君への思いが成就する」ということなのだろうか。わからないことだらけの句であるが、不思議な魅力のある句である。異性への初々しい心の揺れを感じる。今の私の頭の中には、毎回出席してくれている高校生の男の子が浮かんでいるが、もしかしたら、人生をかなり生きてきた方の句かもしれない。でもそれはそれでとても楽しい。初々しさは、おそらく「コスモス」という花の選択によるのだろう。これが「すすき」だとそうはいかない。どうか心の揺れは揺れのまま、思いが成就しますように。
赤とんぼ隣にすわつていいですか
「隣にすわつていいですか」と言っているのは誰なんだろう、これが真っ先に浮かんだ疑問である。①赤蜻蛉が舞っている公園か駅のベンチに句の主人公が座っていて、そこにやって来た人が声をかける。②ベンチに座ろうとしたら、そこに先客の赤蜻蛉がいて、主人公が声をかける。③赤蜻蛉が、ベンチに座っている人に声をかけている。いろいろな解釈ができるところが、この句の魅力なのだろう。赤蜻蛉の人なつこさからすると、案外③かもしれない。口語体の効果も相俟って、親近感のあるあたたかい句になっている。
舞踊家の声の野太く唐辛子
なんだか南米あたりの風景が浮かんできた。「唐辛子」の原産地だからだろうか。唐辛子といってもパプリカにように辛味のないものもあるが、「野太」い声を上げて踊っている舞踊家には、「ハバネロ」のようなとびきり辛い唐辛子が似合う。ヒリヒリと灼けつくような辛さは、ヒリヒリとした灼けつくような思いにも繋がっていき、身を焦がすような思いを抱えながら、声を上げ、踊っている舞踊家の姿が目に浮かぶ。唐辛子の赤、そして南米の赤く渇いた風。「舞踊家」と「唐辛子」という不思議な取り合わせが、私をまだ行ったことのない遠い地へ連れて行ってくれた。
倒木の茸わらわら狐雨
こちらの句にも、不思議な森の入り口に連れて行かれた。それは「わらわら」というオノマトペに因る気がする。「わらわら」で真っ先に浮かぶのは、河野裕子の「わが頬を打ちたるのちにわらわらと泣きたきごとき表情をせり」という歌であるが、もともと「わらわら」は、散り乱れるというような、崩れた感じを表すオノマトペである。この句では、それが不気味感を引き出している。また、陽気なさまも加わって笑いを表すこともあり、毒キノコの「笑茸」を連想することも容易である。どちらにしても、倒木にわらわらと生えている茸は、決して食べてはいけない危険な香りがいっぱいである。そこにもってきて「狐雨」。ヘンゼルとグレーテルが迷い込んだ森のように、この森に足を踏み入れると、ただでは戻って来られないような・・・でも入っていきたいような・・・
(つづく)
「コスモスを倣」うとは、どういうことなのだろう。風に靡き合っているコスモスの、肩に力を入れない自然体を言っているのだろうか。そして「君に成就する」とは、「君への思いが成就する」ということなのだろうか。わからないことだらけの句であるが、不思議な魅力のある句である。異性への初々しい心の揺れを感じる。今の私の頭の中には、毎回出席してくれている高校生の男の子が浮かんでいるが、もしかしたら、人生をかなり生きてきた方の句かもしれない。でもそれはそれでとても楽しい。初々しさは、おそらく「コスモス」という花の選択によるのだろう。これが「すすき」だとそうはいかない。どうか心の揺れは揺れのまま、思いが成就しますように。
赤とんぼ隣にすわつていいですか
「隣にすわつていいですか」と言っているのは誰なんだろう、これが真っ先に浮かんだ疑問である。①赤蜻蛉が舞っている公園か駅のベンチに句の主人公が座っていて、そこにやって来た人が声をかける。②ベンチに座ろうとしたら、そこに先客の赤蜻蛉がいて、主人公が声をかける。③赤蜻蛉が、ベンチに座っている人に声をかけている。いろいろな解釈ができるところが、この句の魅力なのだろう。赤蜻蛉の人なつこさからすると、案外③かもしれない。口語体の効果も相俟って、親近感のあるあたたかい句になっている。
舞踊家の声の野太く唐辛子
なんだか南米あたりの風景が浮かんできた。「唐辛子」の原産地だからだろうか。唐辛子といってもパプリカにように辛味のないものもあるが、「野太」い声を上げて踊っている舞踊家には、「ハバネロ」のようなとびきり辛い唐辛子が似合う。ヒリヒリと灼けつくような辛さは、ヒリヒリとした灼けつくような思いにも繋がっていき、身を焦がすような思いを抱えながら、声を上げ、踊っている舞踊家の姿が目に浮かぶ。唐辛子の赤、そして南米の赤く渇いた風。「舞踊家」と「唐辛子」という不思議な取り合わせが、私をまだ行ったことのない遠い地へ連れて行ってくれた。
倒木の茸わらわら狐雨
こちらの句にも、不思議な森の入り口に連れて行かれた。それは「わらわら」というオノマトペに因る気がする。「わらわら」で真っ先に浮かぶのは、河野裕子の「わが頬を打ちたるのちにわらわらと泣きたきごとき表情をせり」という歌であるが、もともと「わらわら」は、散り乱れるというような、崩れた感じを表すオノマトペである。この句では、それが不気味感を引き出している。また、陽気なさまも加わって笑いを表すこともあり、毒キノコの「笑茸」を連想することも容易である。どちらにしても、倒木にわらわらと生えている茸は、決して食べてはいけない危険な香りがいっぱいである。そこにもってきて「狐雨」。ヘンゼルとグレーテルが迷い込んだ森のように、この森に足を踏み入れると、ただでは戻って来られないような・・・でも入っていきたいような・・・
(つづく)
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