2013年10月11日金曜日

『かをりんが読む』 ~第9回の句会から~ (その3)


『 かをりんが読む 』 (その3)

~第9回の句会から~


今田 かをり


天高く身ぶりおほきく呼ばれけり


すこーんと晴れ渡った秋の青空が目に浮かぶ。その空の下で、「身ぶりおほきく」、おそらく大きく手を挙げて、あるいは大きく腕を振って呼んでいる人がいる。その呼びかけに、呼ばれた人もきっと大きな身ぶりで返事をしたことだろう。季語の「天高く」が効いている。「冬の空」では、こうはいかない。関西から札幌に来て、空の高さ、とりわけ秋の空の高さに驚いた。関西とは、高さの格が違うのである。北海道の広い大地、抜けるような青空の下で、私も身ぶり大きく呼ばれてみたい。

 
虫の音の途切れて闇の重たかり


鳴きすだいていた虫の音が途切れた時の「静寂」を、「重さ」に言い換えた。作者は、突然の静寂によって、闇の密度が高くなったことを感じ取ったのだろう。「聴覚」から「皮膚感覚」への転換である。「闇が濃い」という言葉はよく使われるが、「闇が重い」ということで、いっそうその皮膚感覚が研ぎすまされている感がある。さらにこの句の面白さは、「闇の重さ」が「心の重さ」にまで繫がっていくことを予感させる点である。今度は、「皮膚感覚」から「深部感覚」への転換なのである。
 
真夜中のはららご深くしづもりぬ 


魚類の産卵前の卵を「はららご」と言うのだということを、北海道に来て初めて知った。とりわけ、鮭の卵の入った卵巣を「すじこ」と言うことも。さて、この句の「はららご」は、どういう状態なのだろうか。台所で醤油漬けするために容器の中に「しづもっている」とも取れるが、やはり、まだ母鮭の胎内にあると読みたい。体外に放出された途端に、たくさんの卵は、一粒ずつそれぞれの時間を生き始めるが、今はまだ、母鮭は自分の胎内に、数えきれない卵のそれぞれの時間を孕んでいるのである。けれど、機は熟しつつあることが、「深く」から感じられる。そして、「真夜中」という時間が、その生命の神秘を支えているのである。

 
とろろ汁お茶目のままに老境に 


年を重ねても、どこかに「やんちゃな少年」が残っている人は魅力的である。その女の子バージョンが、この句である。そして、お茶目なおばあちゃんが啜っているのが「とろろ汁」。素朴でなつかしい食べ物である。とろろ汁を啜りながらお茶目だった幼女時代、そしてその頃の家族の風景をきっと思い出しているのだろう。その頃からどれほどの春秋を重ねてきたことかと思いつつ、ふと我に返ると、そこには本質的には何も変わっていない自分がいた。過去と現在を結ぶ食べ物として、「とろろ汁」という季語が絶妙である。お茶目なおばあちゃんは、ほんとに素敵である。
 

(つづく)


 

 

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