2012年8月19日日曜日

葉子が読む(その6)~第二回イベントの俳句から~

葉子が読む(その6)

「なぜか選べなかった心地よき句たち」


句会というのはその日の天気や朝の出来事や
昼に何を食べたかまでが影響するまさにライブだと思う。
投句一覧表を読み、なぜこの句をいただかなかったか?と
不思議に思うことがある。
だいたい八十句もあるところからたったの三句しか選べないのだ。
「心地よき無点の句」が量産される訳だ。




心地よき その1 



秋近し膳場貴子の髪の艶  久才透子



 まず笑った。女性ならではの句だろう。
しかし惜しむらくも予選句までにもいかなかった。なぜかな?
しかし、今こうして読んでみるとなんとも面白い。
膳場貴子。23時からのニュース番組の顔だ。
女性キャスターはファッションからメイクまで何くれと注目を浴び、
いちいちとご指摘の電話もあるという。
作者は、ある日気づいたのだろう。膳場貴子の髪の色が変わった事に。
或いは、秋がちかいなぁと思った時に
膳場貴子がテレビに映し出されただけのことかも知れない。
何れにせよ、女性が女性を見て季節を感じることには共感する。誰が何をしようと秋近し。だ。
ちなみに、あたしは有働由美子が好きだ。

女性キャスターは季節もまた一歩先をゆかねばならぬのだ。



心地よき その2



裏窓に悲しき玩具夏屋敷  後藤友子




作者はあるとき夏屋敷を訪れた。一通り屋敷を見た後
ふと裏窓にある「悲しき玩具」が置かれているのを見つけた。
もちろん石川啄木の歌集だ。
それは無造作に忘れられたのではなく、丁寧に置かれていたに違いない。
それを作者は見つけ読みふけった。
26歳と言う若さで逝ってしまった啄木の歌を
作者はまた裏窓に置き弔ったのではないだろうか。
それにしても夏屋敷という言葉はひどくロマンチックだ。
夏屋敷を持つなど全く夢の話だが、夏の休暇にコテージを借りて好きな本を読む。
このくらいのゆとりは欲しいものだ。


「新しき明日の来るを信ずといふ自分の言葉に嘘はなけれど 石川啄木」




心地よき その3



水槽を見つめる夏の昼下がり  深澤春代



夏の昼下がり。水槽を見つめる。
この水槽が汚れているのか否かが分かれ道の掲句。
あたしならば、ああまた洗わなかったわ。
こんなに汚れちゃって・・・・と見つめながら昼下がりをどんより、
あれもどんより、これもどんよりと過ごすだろう
(だから、我が家に水槽はないのであるが)
作者は水槽はきれいに手入れをしたのであろう。
水槽を洗う・手入れするというのは本当に大変だと聞く。
その方法はあたしには分らないが力のいる仕事であろう。
午前中いっぱいかかってきれいになった水槽。
水はキラキラと光を映す。
そんな光景に作者は満ち足りた気分になるのだろう。




心地よき その4



サングラスセピアに染まる晴れの庭  藤井飛鳥



作者はサングラスをかけている。
庭に目をやるとそこはセピアに染まっている。
ここで、はたと立ち止まってみた。
サングラスをかけて見る世界はサングラスの色だ。
そしてその色の世界になる。

そこをあえて作者はセピアに染まると言った。
確かに庭はサングラスによってセピアに染まったのであろうが、
果たしてそれだけだろうか?
セピアという色はどこか懐かしさと郷愁を思わせる色だ。
そのセピアという色を選んだ作者は、
この晴れの庭に思い出を見たのではないだろうか?





心地よき その5



故郷の生家霞むや草いきれ  村元幸明




掲句。霞むがなかなかうまく理解しきれないのだが・・・
ふと気付いた。

あたしの故郷は噴火で多くの家を置き去りにして人々は非難した。
そして一時帰宅の時の事。
荒れた、生活の朽ちた家を見た時人々の目は霞んだのだ。

これを思い出した時。掲句が身近に感じた。
草いきれで霞んだのと、作者の生家への思い出が霞んだのと
両方だったのに違いない。

田舎を歩くと売家の看板の立った家が多い。そしてその多くが
雑草にまみれ、家人が暮らしていたころは丹精したであろう花が
咲いたりするのを見ると、涙が出そうになり霞むあたしだ。

句会中はここまで思いをめぐらせる時間がないのが残念だ。
しかし、今一番この句を実感するのは福島の方々なのだろう。




心地よき その6



夜涼みや静寂を切る救急車  新川託未




夕食後、暑かった一日を引きずりまだ熱のこもる夜。
作者は夜風に当たっていたのだろう。きっと一人で。
静寂の中ただ過ごしていたわけではない。
静寂を楽しんでいたのだ。

しかし、今の世の中夜とは言え静寂を得るのは難しい。
これは作者の心の静寂だったろう。
でなければ「静寂を切る」という感覚にはならないだろう。
静寂を切った救急車。静寂を切るものは他にもあるだろうが
はやり、救急車でなければこの句はならないと思う。




 
心地よき その7




カーネーションみな終焉の色をして  安藤由起



この句はあたしのテーマにも似ている句でずっと気になっていた。
気になっていたゆえに、どう書こうかと迷っていた。
花の終わりというものは、融けてゆく感覚がある。
それが終焉だ。花びらが一枚一枚落ちてゆく花。
花ごとぽたりと落ちる花。
花の盛りが終わり朽ちて行く寸前、花びらはねっとりとする。
まるで、最後あがきのように。掲句のいう終焉だろうか?
いつかその花びらの朽ちて透けてゆくさまを詠みたいと思って
いたところへこの句を目にし「終焉」という言葉に唸った。
そして、この句はカーネーションといっている。
カーネーションと言えば万人が納得する理由がある。
母の日にこぞってカーネーションを贈った。
鉢物のカーネーションもそろそろ終わりを迎えている。
その姿を終焉の色と解釈した。
五月からの時間を遡り、今を詠んだ掲句があたしは好きだ。





心地よき その8



喪服着て持つハンケチは真っ白で  福井たんぽぽ

 

お弔いに向かうときあたしはハンカチの色に迷う。白にしようか黒にしようかと。
作者は白に、しかも真っ白にした。亡くなった方への想いが真っ白を選ばせたのだろう。
「ハンケチ」という表現もまた作者の想いが込められているようだ。
通夜・告別式と涙と鼻水ととかく「ハンケチ」は必需品だ。
女ならばマスカラやら控えめなメイクでも泣けば落ちてハンケチにうつる。
泣くのをこらえれば、手に力が入りハンケチを握りしめる。
帰り道、しわくちゃになり汚れたハンケチに作者は何を想っただろう。
あたしは、お見送りの形としてハンケチがあったと思うのだが。



心地よき その9



滴りて低血圧と同期せり  恵本俊文




滴りと低血圧の取り合わせ。これはなかなか思いつかないだろう。
しかし、あたしは低血圧仲間として理解できるところだ。
あの滴りを見ていると「あれが俺の血の流れか?」とか作者は
感じたのだろうか?いや、同期せりと言っているのだから
滴り見つけると、作者の心拍は滴りと同期してしまうのだ。
滴りのテンポでは健康体とはいえない。まるで点滴のようだ。
同期と動悸。そんな遊びもまた入っている句であるかもしれない。
低血圧によい生活ってどんなだろうな・・・・と思う。




◆これをもちまして第二回【i t a k】イベント句会の
葉子が読むを終了させて頂きます。
拙い文章ではありましたがあたくし自身は、
大変勉強になる場を与えて頂けました事を
感謝申し上げます。

高畠葉子拝


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