葉子が読む (その4) 「食」
風も、音も、色も、この星と太陽の微妙な距離感や
力関係で奇跡とも言えるバランスでできたものだった。
次は「食」。あまり難しくは考えていない。
たまたま句座に「食」があったから、くらいの
軽い気持ちではあるが、先に書いたとおり
「食」自体は奇跡といえる地球に与えられたものであることは
記したい。
食 その1
逃げられぬ状況にあり梅雨菌 室谷安早子
まず「梅雨菌」とは不勉強ゆえ知らなかった。
一読「つゆきん」と読んでしまう。梅雨と菌はあまりに近い印象だからだ。
そして、帰宅してゆっくりと読んでみると「梅雨きのこ」であること。
写真もたくさん見た。なるほど。きのこと打つと菌と変換してくるではないか。
どうも写真からは食べられそうにない姿が多い。
ここで今、作者は逃げられぬ状況にある。
そこへ梅雨菌をもってきたのはなんとも愉快だ。
逃げられないという、切羽詰まった状況であるにも関わらずだ!
菌という字の選択もなかなか粋ではないか。
句会ではなかなか読取れないものだ。
後になってから「しまった!」と思う句が意外と多い。
本当に句会とは生もので、日頃の勉強と知識の積み重ねが鑑賞を
深くするものと大いに反省をした。
でも梅雨菌中には食べられるものもありそうだ。
食 その2
ソーダ水泡の数よりある記憶 小笠原かほる
ソーダ水の二句目だ。ソーダ水の泡は次から次と浮かんでは弾ける。
作者は泡の数よりある記憶と言っている。
始めは勢いよく弾け、次々と泡も元気がよい。
そして、時間が経つにつれて泡の数が減り弾ける勢いも
弱くなる・・・・・まるで人生のようだ。
つまり、作者は負けないわよ!と自分を鼓舞しているのかもしれない。
気がすっかりぬけた、ただの甘い水となってもこの作者はここから
記憶を作り出し水泡を弾けさせるのだろう。
ソーダ水という、甘い季語から見える作者の強さを思う。
食 その3
ひとすくい心が笑う水羊羹 佐々木成緒子
水羊羹はするりと、のどごしがよく、夏の甘味好きにはたまらない。
甘いものは人の心をほぐしてくれる。作者はもしかしたら何か
心に引っかかるものがあったのかもしれない。
なぜなら、この句があまりにもすーっと読めるので逆に何かあったのだろうか?
と思わせるのだ。
あれ?誰かと喧嘩などしたろうか?などと野次馬根性が出てしまった。
しかし、水羊羹。なにがあってもなくても、ひとすくいすれば心が笑い
さて!がんばりましょうか。なんて気持ちになるものだ。
はて?心が笑う?これもなかなか面白いではないか。
食 その4
アカシアの花降る中を結婚す 田口三千代
食をとりあげたテーマの句で掲句?と思われる方もおられるかもしれない。
しかし、この句の中に「食べられる」ものがある。
アカシアの甘い花の降る中の、幸せな二人。
それを祝う人々。美しい花嫁と美しい花。頼りがいのある花婿どの。これ以上何がありましょう。
佳き季節佳き日佳人たち。
想像するだけで幸せな気分になれる。
さて。「食」句意からは少々外れてしまうことを覚悟で書いている。
この、美しき祝典のあとには日常がまっているのだ。
この句の中の食材はアカシアである。
アカシアの花は天麩羅にすると美味しいのだそうだ。
ほんのり甘い香。そして、翌年アカシアのアレルギーが少し良くなるそうな。
むりやり感は否めないが、アカシアと聞くとすぐに天ぷらを思い出すものだから・・・・
食 その5
流しさうめん変なおじさん混じりおり 岩本碇
ああ・・・・もうだめだ。
掲句を読んだ途端にバカボンパパがさうめんといっしょに
流されてくる姿が頭に張り付いて離れない。
もちろん、作者はそんなつもりで書いた訳ではないと思う。しかし、
あたしの脳内ではそう変換されてしまい、どうにもならないのだ。
・・・・流しさうめんを楽しむ人たちの中にちょっとだけ
変なおじさんが混じってた。というだけのことだが、こうして
あたしのように、バカボンパパがさうめんと流されてくると
感違いさせてしまう変な句だ。いや、バカバカしい力があるのだ。
この句を旧かなで書いているところが技ありと思う。
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