2019年3月14日木曜日

俳句集団【itak】第40回イベント抄録 『歴史のあしあと』 札幌の碑

俳句集団【itak】第40回イベント抄録

『歴史のあしあと』 札幌の碑

 俳句集団【itak】の第40回のイベントが20181110日、道立文学館(札幌市中央区中島公園)で開かれ、札幌市内の石碑を研究している川島聡さんが「歴史のあしあと 札幌の碑」と題して講演しました。川島さんは、201712月、石碑の愛好家グループ「さっぽろ石碑探索部」を設立、ブログ(https://nyh3boys.theblog.me/でも、その魅力を発信しています。講演では、札幌市内にある石碑や史跡の場所、歴史などを写真を使って紹介しました。講演の詳報を掲載します。



季語にするなら秋?

私は5年ほど前から石碑に興味を持ち始めて、札幌市内の碑を探索しようと思い立ち、ブログ「歴史のあしあと 札幌の碑」として(インターネットで)発信しています。現在(1811月現在)、訪ね歩いた670の石碑、旧跡の説明板などを紹介しています。

今年(2018年)1月から、札幌の「第3もっきりセンター」の隣のビル、サルーン(札幌コワーキングスペースカフェSaloon、南1東2)という場所をお借りして、月に1回、「石碑探索部」という会を開き、石碑の話などをしています。北海道新聞にも「ブログに400基掲載」と大きく紹介されました。歴史に興味ある人、古建物に興味ある人が集まるユニークな会になっています。夏には講演のほか月に1回、石碑めぐりツアーも行っています。

ところで石碑は「季語」ですか? 違いますか?。でも、石碑を詠むことにはみなさんも興味があるのではないかと感じます。私の石碑のイメージとしては、「秋」がふさわしいと思っています。夏は、どうしても緑に囲まれて見えにくい。今日も中島公園をぐるっと回ってきましたが、夏は緑の中に覆われた石碑が、秋になって枯葉が落ちた中で姿を現すと「ああ風情があるなあ」と感じます。気を付けて見ないと分からない。ぜひ、自宅の近くに碑を探して、何かひらめいたことを句にしてみるのも面白いと思います。石碑に興味を持ってから、車を運転していても周囲の風景が気になる。安全運転を心掛けていますが、見つけるとわざわざUターンすることもあります。ホームページ(HP)では670基を数えたと言いましたが、札幌市内で1000基近くはあるのではないかと思っています。有名な碑もあるけど、埋もれた碑もある。HPでも紹介していますが、素人なので、あいまいなところもあると思いますが、文責は私にあるのでご了承ください。


歴史伝える生き証人

明治24年の札幌の地図を見てみます。石碑は歴史を知らせるものの一つでもあります。古いモノを訪ねることが目的の一つではありますが、私は今も残されていることにも興味があります。明治初期、戦前の碑が今も大事に残されており、そこを訪ね歩く。明治24年の地図には、すでに道庁、植物園があります。札幌は、湧き水が伏流水となり、川となり、扇状地の末端にあたることが分かります。伊藤組会長の自宅があった場所、いまは高層マンションになっていますが、そこには「開拓紀念碑」がありました。今は大通公園6丁目のステージの片隅に移設され、保存されています。「屯田兵招魂碑」は、中島公園から護国神社に移されています。時代を経ながらも大切にされ、保存されている碑がたくさんあります。そのことをもっと市民に知ってもらいたいとも思っています。

石碑は、歴史の生き証人。HPやブログで石碑を紹介する人は結構いますが、もったいないと思うのは、紹介だけで終わっていることです。石碑にはいろんな情報が残されています。裏には碑文があり、歴史が書かれていたり、人物なら履歴などが刻まれている。石碑を見て、何が刻まれているのか、何のために残されているのか、一つ一つ見ていくのが面白い。

石碑探索を始めた当初は情報がなく、身近な碑から訪ね歩きました。すでに絶版となっていますが「さっぽろ文庫」(100冊シリーズ)の第45巻に「札幌の碑」があります。古本屋で見つけて買ってきて、まずそこから始めました。本の帯には「600余りを取り上げる」と書いてあって、昭和63年には600基の碑があると紹介されています。その後、なくなった碑も結構あります。ただ、新しくできた碑もあるので、今でも最低でも600はあると思い、続けてきました。各区のHPに、区の歴史とともに碑を紹介しているサイトもあります。南区や白石区、豊平区はHPで見ることができます。その情報をもとに、石碑がどのような場所にあるのか、健康増進も兼ねて、週末に探し歩いています。

今日も中島公園を歩いてきましたが、今まで探してもどこにあるのか分からなかった碑を見つけることができました。郷土史家の山崎長吉さんの著作の中にヒントがあった碑(「札幌園芸市15周年記念碑」)なのですが、人目の着かない場所に小さい石碑を見つけたので、さっそく写真を撮ってきました。これは興味を持たないと見つけることができないなという感じで、自分の足で探して歩くことが大事だと切に感じています。


10区各地に点在

「石碑探索部」には興味がある人に参加してもらい、有意義な時間を過ごさせてもらっています。きっかけは、「O.tone(オトン)」という雑誌でした。ブラタモリにも出た和田哲さんらが編集している雑誌です。オトンの記者から「碑を紹介するページを作りたいので協力していただけませんか」と声を掛けられ、記事にしていただきました。また、市電で配られていた小冊子「まちのモト」でも、HPから選んでもらい、市電沿線の石碑を紹介しました。先日、STVの「ブギウギ専務」という深夜番組では、道内の石碑を3週連続で紹介した企画がありました。道産子ワイドでも、桑園の歴史で石碑の紹介をしていました。北海道開道150年というタイミングもあり、歴史がクローズアップされてよかったなと思います。

札幌の石碑の中で、一番に思いつくものは何でしょうか? 自宅の近くの碑と言われても、なかなか思いつかないかもしれません。例えば大通公園では5丁目の「聖恩碑」。背の高いオベリスクのようなものがありますが、あれも石碑の一つとして紹介しています。気を付けて見ると結構、身近なところにある。6丁目の「開拓紀念碑」も、ベンチに座ってみると「あっこんなところにある」と感じます。テレビ塔も一つの歴史の遺産という気がします。

HPではエリア別に紹介していますが、やはり中央区が一番多いです。開拓使が置かれ、札幌の始まりの地域でもあります。次に南区が多い。昔、豊平町であったという古い歴史があります。私は南区に実家があり、自宅は豊平区なので、市内南部に足が運びやすいですが、逆に手稲、厚別はあまり足を踏み入れることができていません。手稲区も歴史があるところで、軽川というところから馬車鉄道が走っていたと聞いています。南区は、国道230号沿いに集中しています。明治初期につくられた東本願寺街道がもとになっていますが、様々な思いを刻んだ碑がある。これは人海戦術で伊達から平岸天神山の麓まで、突貫工事で開いた道です。しかし、2年後には苫小牧や千歳を通る室蘭街道、今の国道36号ができました。歴史にあまり詳しいわけではなく、ただ石碑が好きで趣味の域を出ていないので、多くの方の情報を得ながら、少しずつ中身を深めていきたいと思っています。HPの地図では区別に色分けしていますが、かなりの数が点在していることが分かります。



地区の神社に収斂

石碑はどういうところに多いのか。一言でいえば、神社が非常に多いです。信仰の対象となった碑などが、神社に集められ、収斂されていった結果と思います。個人の住宅にあった碑や街道沿いの碑も、住宅開発や道の拡幅などで移され、行き着く先が神社となる。神宮、護国神社、石山神社、信濃神社(厚別)、白石神社、豊平神社など地区の大きな神社に残されています。神社に行くだけでも、ある程度の碑を見ることができます。

私が一番、感動したのは白石神社で、ここはすごいですね。昔の渓谷をそのまま残して、今は使えないですが、湧き水もある。池が作られており、その回りに小さな神社や碑が置かれている。景色もいい。近くに幹線道路が走っているけど、その音も聞こえない閑静なところで心が洗われます。碑を眺めながら時間を過ごすのもぜいたくなことだと思います。

護国神社は、戦争の犠牲者の慰霊碑なども並べられている。歴史が刻まれた中で、犠牲になった人たちの魂が眠る場所。特別な場所という気がする。近くに行啓通がありますが、車の音は聞こえない。「集められている」と言い方はどうかと思うけど、一堂に会して見られ、今で言うパワースポットと言えると思います。慰霊碑や信仰の碑が置かれており、神社はいいなと思います。

公園にも石碑があります。大通公園も、1~11丁目まで歩くと、25~30基近くあります。ゆっくり見て歩くのもいいと思う。学校にも結構あって、文学碑などが残されています。石碑を探す際に一番難しいのは、個人宅にある場合です。公共性のある場所はいいのですが、管理されている場所や個人住宅にある碑を探したり、見るのが難しい。これが意外とあって、外から見える場所は道路から遠巻きに撮影したりします。なぜそこにあるのかを紐解いていくと、面白い歴史が分かることもあります。


点が線で結ばれる

第1回の石碑探索部では、「碑が置かれた点と線」と題して話しました。石碑は地域地域にあって、それが点になります。その点をたどると、線となって、つながるものがあります。

一つの例として、明治天皇の行啓関連碑があります。まずは「清華亭」。札幌駅北口の偕楽園に小さな建物が残されています。明治19年、明治天皇が北海道に行幸に来られた際に、東北から船で小樽に入りました。そこからお召し列車に乗って札幌まで、当時は時速15㌔くらいでゆっくりと入ったようです。そこで清華亭で休憩されたという記録が残されています。敷地の中に「明治天皇札幌御小休所」という石碑が残っている。お休み所ですね。ここで一休みして札幌市内に入られた。現在、中島公園内にある豊平館は、昔は市民ホールの場所にあり、豊平館跡の石碑が市民ホールの前庭にあって、ここにお泊まりになられたと残されている。その点をなぞっていくと、偕楽園、豊平館という繋がりができる。その後、市内を回られたことが、あちこちに石碑として残されている。行幸の順番でいえば最後のほうになりますが、行啓通の山鼻小学校グラウンドの一画に「明治天皇御駐蹕(ごちゅうひつ)之地」という碑があります。「御駐蹕」とは、かごを停められたという意味です。藻岩下には、藻岩山スキー場から降りてきて、真駒内橋を渡ったところの「みゆき公園」の中に「明治大帝御巡幸之碑」があります。そして真駒内公園(曙町)に「行幸道路」という碑が残されています。さらに月寒東にある農業試験場の国道36号挟んで向かい側にも「明治天皇御駐輦(ごちゅうれん)之跡碑」があります。「御駐輦」もかごを停めたという意味です。個人の農場だった場所にかごを停めて休まれた。「点と線」で言うと、小樽から銭函、清華亭、豊平館につながり、東本願寺通、平岸街道を下って、真駒内の種畜牧場(陸自の駐屯地の場所)を視察され、豊平川をわたり、みゆき公園からみゆき通りを通って山鼻小学校で休まれ、豊平館に戻ったという記録が残っています。こうして見てみると、点と線がつながる楽しみ方もできて、一つ一つの石碑が意味をなしていきます。そうした見方をするとあちこちで歴史をたどる方法が見えてきます。


本願寺街道の記録

さきほど紹介した本願寺街道は、明治4年に開通しました。当時、反政府側と見られていた東本願寺に新政府が命令してつくらせた道で、現如上人を筆頭に、お布施を募りながら、東北地方を北上し、北海道の伊達に入って道を切り拓きました。伊達市の長流別(オサルベツ)に本願寺街道の始まりの碑があり、そこから中山峠に入ります。峠の頂上に現如上人の像と記念碑が置かれ、傍らには旧本願寺街道の碑も残されています。当時は幅3㍍ほどの原野を切り拓いた道だったそうです。あの山道をどれほどの苦労で切り拓いたのか。東本願寺派の信者やアイヌの人たちの力を借りて、人海戦術で1年ちょっとの短期間で平岸までの道をつくり、節目節目、場所場所に碑が残されています。簾舞中学校の傍らには、道の一部が残されています。裏に小高い丘があり、一部歩けるようになっていて、そこにも碑が残されています。旧国道には旧黒岩住宅があります。当時は休憩場所、駅逓として使われていました。今も黒岩家の末裔の方が管理されています。中には定山渓鉄道の記録も残されていて、とても興味深い場所になっています。さらにたどって230号線から平岸街道に入り、澄川墓地のふもとに本願寺街道終点の碑があります。歴史を辿ると線でつながります。当時の街道がすべて国道230号線になったというわけではないので、現在は実際に歩くのは難しいです。昔から景勝地であった豊平峡あたりも、ダムに沈んでしまったところもありとても残念です。今は豊平峡の碑が残されています。


創成橋の里程元標

もう一つ、線と点で結びつく例を紹介します。街中の南2条、創成川のアンダーパスになっているところに創成橋が復元されていて、その東側に「北海道里程元標」があります。すべての道はここから始まったという意味で残されています。側面に方向を示したものが刻まれています。東側には「對雁驛(ついしかりえき) 四里拾六丁五拾三間」「島松驛 五里弐拾七丁四拾五間」と書かれています。恵庭の島松ですね。北には篠路、西には銭函、方向と距離が示されています。島松駅は5里あると書かれていますが、ここを起点に、月寒の36号に「一里標」跡というものが残されています。車では気づかない小さな看板です。望月寒川の橋の欄干にある豊平区で立てた説明板です。明治6年に札幌~室蘭の室蘭街道の完成を機に、1里ごとに里程標を設置したものです。では、2里はどこか。これは月寒東2条19丁目にあります。36号線から一歩入ったところですが、東月寒会館の敷地の中に「協心拓地」という碑が建てられていて、その説明板に「二里塚」と書かれています。3里はどこか?それは三里塚神社の名前に残されています。平岡南公園には、国道の旧道に「三里塚碑」が残されています。1、2里塚には碑があり、3里塚は碑のほか、地名としても残っています。では4里塚はどこか? 残念ながら4里塚の記念碑は、以前はあったかもしれませんが今はありません。北広島のほうになるのですが、「四里塚会館」というのがあって、会館の名前にはかろうじて残されている。島松は五里の地点になり、クラークさんの碑があります。

本願寺街道、明治天皇の行幸、里塚など一つ一つの石碑を辿ると一つの線につながる。それが碑に興味を持ち始めたきかっけですが、そういう見方でも楽しんでもらえたらと思います。


俳句にまつわる碑

俳句にまつわる碑も残されていることに気づきます。HPでは「句歌の碑」として紹介しています(https://nyh3boys.theblog.me/posts/categories/25620)。

旭川の詩人、東延江さんが「北海道の碑(いしぶみ)」(1989年、北海道新聞社)という本を書いていて、当時の北海道の文学碑、詩や短歌、俳句の碑を紹介しています。この本を一つの参考にして訪ねています。旭山公園の寺田京子さん、定山渓には花之本聴秋さんの句碑句碑は、意外と個人住宅に置かれていることが多い。鮫島交魚子さんは、ご家族の個人住宅に置かれています。入るのは難しいのですが、陸上自衛隊の駐屯地にも、交魚子さんの句碑があります。今は移転しましたが以前、平岸の陸上自衛隊病院にも交魚子さんの碑があったと聞いています。紅桜公園(南区)には木村敏男さんの句碑。木村さんは盤渓(南区)にもあります。盤渓には椎名千恵子さん。月寒公園(豊平区)には北光星さん、藤野(南区)には天野宗軒さん。丸山定山さんは豊川稲荷(南7西4)の境内にあります。

新しい碑はなかなか紹介されていませんし、目に触れないもの、興味がなければ気づかないものが多々あると思います。みなさまのお住まいの地域で、近くにある碑、句碑などの情報があれば、ぜひ教えていただければと思います。

先月、円山公園の記念碑ツアーを行い、石探部(石碑探索部)の仲間で回りました。HPで紹介した碑を中心に見て回りました。円山墓地に入り、坂本龍馬の末裔、坂本一族の坂本直寛氏のお墓などもあると聞ていたので、みんなで捜して、見つけることができました。お墓は、石碑とは違いますが、著名な人のお墓も残されており、これからも札幌の歴史として紹介していきたいと思います。今後の活動として、札幌市内で1000を基を目標に(碑を)紹介していき、その後は札幌近郊も訪ねていきたいと思っています。





これからも探索

文学一つとっても北海道ゆかりの作家さんの碑が多い。有島武郎、伊藤整、小林多喜二、余市のほうにいけば幸田露伴の碑もあります。文学を通じての碑もテーマとして面白い。そのほか、当別のほうに行くと「石狩川」を書いた本庄陸男の碑、大通公園の近くには島木健作生誕の地丸井今井の大通公園側には武林無想庵の小さい説明板もあります。情報がないと分かりにくいですが、札幌にゆかりにある作家を辿る見方も面白いですね。

古い建物もあるし、時間とともになくなっている碑もある。久しぶりに訪れた碑が、もうなくなっていることもあります。移設されたのかもしれないですが、宅地開発ともに失われていくものも多く、淋しいですね。豊平の経王寺という開拓時代からのお寺がありますが、20数年ほど前、地元の郷土史研究家が石碑を発見したこともあります。これからも新しい碑が見つかるかもしれません。失われた碑を捜すことも考えています。東本願寺街道に昭和初期、ひぐまに襲われて命を落とした方の慰霊碑が置かれていたという話しがありますが、今どこにあるのか分からない。見つかるかどうか分からないが、これをたどっていきたいとも考えています。

3年ほど前まで、福住に玉田守という若い兵隊の慰霊碑がありました。戦時中、福住に墜落して命を落とした飛行兵の碑ですが、老朽化が著しく危険とのことで、地域の住民の総意のもと、神主さんが祭って解体されたことが区のHPにも紹介されています。時代とともに残されていくものがある一方、なくなるものもあります。いま残されているものはぜひ紹介していきたいです。

石碑探査部は月1回、サークルという形で、愛好者に参加してもらっています。HPをもとに話をしたり、外に向けての活動をすすめていきたいと考えております。情報があれば、ぜひ聞かせてもらいたいし、もっともっと石碑に興味を持ってもらえるとありがたいです。また、例えば石碑をテーマにした句会などを開くのも、面白いのではないかと思います。



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