「点綴〈小説家の俳句〉」
(2018年 3月10日)
俳句集団【itak】の第36回のイベントが2018年3月10日、道立文学館(札幌市中央区中島公園)で開かれ、同館の運営にあたっている(公財)北海道文学館副理事長の平原一良さんが「点綴〈小説家の俳句〉」と題して講演しました。その詳報を掲載します。
●俳句との関わり
私は、作家の吉村昭さん、奥さまの津村節子さんと長年、交流を持ってきました。吉村さんとは亡くなる直前までお付き合いをさせてもらいました。文学館での四半世紀近くの間、世の中が見えなくなりそうな気分に陥りそうなときは吉村さんの存在が支えでした。今日は、吉村昭はじめ近代日本の小説家と俳句との縁についてお話しさせてもらいます。
私は俳句の専門家ではないのですが、俳句結社から講演依頼の声がよくかかります。旭川の「雪華」や源鬼彦さん主宰の「道(どう)」、「葦牙(あしかび)」…。「葦牙」の主宰者で北海道俳句協会の2代目会長だった山岸巨狼氏は、実は私の遠縁でした。文学館に入ってすぐの1995年秋、巨狼さんが「お前は親戚だ」と告げてきた。母方とつながっている人でした。以来、私は文学館で俳句のみなさんとの接触も増えました。そんな事情も手伝ってか、昨年の「ふみくら」展では、図録で、俳句と詩についての解説を担当しました。
また、私の父は小学校の教員でしたが、水野波陣洞(はじんどう)さんから号をもらって俳句を続けていました。敗戦直後、江別市の野幌に俳句結社「熊笹吟社」があって、野幌小や北広島東部小の教員時代にそこに所属していた。新聞に投稿して「天・地・人」に入選したなどと喜んでいた記憶があります。遺品を整理していたら、波陣洞さん直筆の父親の号を書いた和紙が出てきたりして、俳句に縁がなくもないのだと確認できました。
また、私は学生時代に北大で国文学専攻でしたが、先生の中に「壺」の元主宰、近藤潤一さんがいらした。最初は近藤研究室に出入りしていましたが、女子学生ばかりだったので、隣の五十嵐三郎先生の研究室に鞍替えしました。それでも近藤さんは始終声をかけてくれました。卒業後、東京に行き、Uターンして戻ってきた私を「壺」に勧誘したかったようですが、私は短詩型よりも評論、小説を読むほうが好きだったので、やんわりとお断りしたことがあります。近藤先生の逝去後に奥さまから遺品整理を頼まれ、一部は文学館で頂戴できました。
そんな巡り合わせで今回、五十嵐秀彦さんから【itak】講演のご指名を受けたのかもしれません。少しくらいは俳句について話ができるのかなと思ってやってきました。
●室蘭の作家八木義徳
室蘭生まれの芥川賞作家、八木義徳は、私が尊敬する作家の一人でした。吉村・津村夫妻も早くから八木さんを尊敬していました。八木さんは有島武郎の影響を受けています。さらに、私は原田康子さんにも弟分として接していただきましたが、吉村さんの奥さま、津村節子さんは原田さんと仲良しでした。私の父は、原田さんの連れ合い佐々木喜男さんと旧制中学で同期でもありました。いろいろと繋がっていて、不思議な縁を感じています。
実は、その八木さんが俳句好きだったことは意外に知られていない。「雪華」で講演した際にも少し触れたのですが、八木さんのエッセイに、句会の様子を書いた文章があります。
「30畳ほどの庫裏の片隅に逃げていって、慌てて歳時記を開く者がある」
「酒やウイスキーを飲みながら、『何々や』と大声で怒鳴り出す者がいる」
「そそくさといなくなり、広い境内をのそのそ動き回る者がいる」
「恐ろしくきまじめな顔つきで、高い天井の一点をにらみつけたまま、達磨のように身動きせぬ者がいる」
「『青芝』同人の女性を捕まえては、しきりに駄洒落を連発する者がいる」
「出るのか出ないのか、とにかく無闇矢鱈にトイレに入ったり出たりする者がいる」
「ノートに書きためてきた句の中から、何とか5句を選びだそうと神妙な顔つきで鉛筆をなめなめしている者がいる」
「裏手の墓地で姿を消したきり、締めきりギリギリまで顔を見せない者がいる」
野びる野にわれ大陸に飢え居たり
藤房のぼてりと重き恋終る
八木さんの俳句です。八木さんは大陸に召集され、本当にたいへんな思いで引き揚げてきた。家族全員が空襲で亡くなり、心身ともに荒れているところに現れたのが、2番目の奥さまです。正子夫人に救われました。最初の句は、時間を経て詠んだ句です。2句目、「恋」をストレートに詠むと、無粋になることがありますが、八木義徳さんの場合だと「いいな」と感じます。八木さんにも、そんな思いを持った時があったのだなと思いました。
●俳句にまつわる書籍
たった1回の句会でも百人百様です。参加者の数に応じて、いろいろな姿、形がある。さまざまな姿態を無意識にさらしながら、俳句を作って、差し出して、選句、合評をすることになる。これは僕らの時代、のどかな時代の俳句の景色でしょうか。机に向かって作るスタイルもあれば、吟行よろしく作る人もいるかもしれない。即吟ではなくて、2、3日前から作って、書きためている人もいるかもしれません。
俳句を作るスタイル、句のスタイルも本来は自由なはずです。坪内稔典さんの『俳句とユーモア』という面白い本があります。あるいは、永井荷風の俳句は有名ですが、加藤郁乎さんの『俳人荷風』という本もある。こんなに難しく論じなくてもいいだろうにと思いますが…。小説家でいえば、藤沢周平さんの句集もある。坪内さんには『俳人漱石』という本もある。書店の俳句コーナーは、以前に比べると小さくなりました。昔は3倍くらいはあったのではないか。短歌、詩も同じ。文学系の棚がどんどん小さくなっているという背景があります。
句作百態。あなたはどんなスタイルかと言われたら、どう答えますか? 言葉と向き合って手を動かす人、若い人ならワープロ、パソコンでいきなり打つ人もいると思う。私は手書き派だけれど、仕事ではパソコンも使っています。一方、スマホなどで画面をスクロールしながら作る人もいるかもしれない。例えば、尾崎放哉の俳句は、ネットで調べればたくさん出てくる。ところが、(ネットでは)俳句が横書きになっている。これでいいのでしょうか? 本来日本語は、縦書きで鍛えられてきたという伝統がある。放哉の初期の作品「よき人の机によりて昼ねかな」などを横書きで見ると、私には違和感があります。
最近、子規の「獺祭書屋俳話・芭蕉雑談」という岩波文庫を読んで、感心しました。26歳で子規はこういう本を書いている。すごいですよ。江戸期の俳諧から近代の俳句に移っていく中で、革新者だった。短歌においてもです。すごい人物、天才だと思います。
高橋康雄さんは札大の先生で、名編集者としても有名でした。「俳句朝日」の編集長でもありました。残念ながら50代後半で亡くなりました。『風雅のひとびと』(朝日新聞社)という名著があります。古書店で見つけたら、ぜひ買うといいですよ。一読すれば、内田百閒、瀧井孝作、岡本綺堂ら、日本の近代、現代の散文作家、ジャーナリストなどが、いかに俳句を愛していたかが、よく分かる本です。高橋さんは宮沢賢治にも詳しい人でした。山口昌男さんに呼ばれて札幌に来て、10年も経たないうちに亡くなってしまいました。
坂口昌弘さんの『文人たちの俳句』(本阿弥書店)。原田さんの『挽歌』の映画監督、五所平之助は俳句好きでした。映画『挽歌』の主人公は最初が久我美子さんで、その後は秋吉久美子さん。五所監督の絵コンテが原田さんの残した資料にあって、監督の俳句がそこに残っている。この本は、みなさんの日ごろの興味を喚起する面白い一冊だと思います。
室生犀星は、小説家で詩人だという固定観念がありますが、俳句も作っている。文学者は好奇心旺盛。小説家で通っている人が意外や意外、俳句や短歌など他のジャンルに熱中している場合もあります。原田康子さんも「私も若いころは詩を書いていたのよ」と、自作の詩をこっそり見せてくれたこともあります。
俳句を難しく考えることはないし、多様なスタイルがあっていい。俳句を詠むスタイルもいろいろあっていい。「面白がる」というところで言うと、久保田万太郎も、俳句が大好きで、俳句についての蘊蓄を傾けています。近藤浩一路の『漫画 吾輩は猫である』(岩波文庫)の巻末で、万太郎が「柿腸(かきのちょう)」という俳人について書いている。なぜ自分が俳句好きなのか、柿腸の俳句はどこが面白いか、などを紹介している。こうした本は、俳句コーナーでは、なかなか見つかりません。一般の文庫コーナーで、「何だこの本は?」と手に取ったら、俳句の本で、面白かったりする。「漫画はバカにできない」と山口昌男さんも盛んに言っていました。この本では、「柿腸は近藤浩一路という絵描きであり、漫画家だ」という種明かしもしています。
専門的な俳句の本、俳句コーナーだけに目を向けるのは、ダメとは言いませんが、違った分野の本からも意外な発見が得られます。例えば、吉村昭さんの『海も暮れきる』です。尾崎放哉が主人公のこの小説には、放哉の佳い句の大半が収まっている。また、『漱石・子規 往復書簡集』(和田茂樹編、岩波文庫)には、漱石、子規の句がびっしりです。
●小説家の俳句
【有島武郎】
雨十日十日の後の青葉かな
谷川に見入る一むらのつゝち咲き
時雨るや比叡さへ見えて京の町
山も水もぬれけり宇治の春の雨
有島は俳句は好きではなかったようです。ここに挙げた句のほかにもあると思いますが、全集第16巻を調べたところ、この4句しかなかった。平凡で、字余りだったりします。「山も水も~~」は、気むずかしそうで真面目な顔を持つ一方、こういう平凡さもあって、親しさを感じさせなくもない人だなと思えます。一方、短歌にはそこそこ関心があったのか、文学館には直筆の短冊もあります。心中相手・波多野秋子の夫宛の遺書、有島の書簡類もあります。80年ぶりくらいに本物が見つかって話題になりました。全集にもありますが、「明日知らぬ命の際に思ふこと色に出つらむあちさゐの花」など、辞世の歌を10首ほど残しています。叙情歌としても読めますが、末期の歌だと知ると、意味がくっきり分かります。
【幸田露伴】
春風や巣に居る鷺のむく毛にも
冷酒に櫻をほむる獨りかな
おれもあの玉屋になろか春の風
北海道にも縁の深い幸田露伴の春の3句です。
3句目の「玉屋」。「あの句の玉屋って何だろう」と調べてみました。「シャボン玉」のことでした。当時は、シャボン玉が売り物になった。露伴は、江戸末期に生まれ、明治を生きた人。明治風俗を描いた柳田國男の本にもありますが、今と売り物が全然違った。
文学館の仕事の中で、道内の文学碑を全部チェックしたことがあります。余市に幸田露伴の句碑があることを知りました。
「塩鮭のあ幾と風吹く寒さかな」(からざけのあぎとかぜふくさむさかな)
良い句碑ですよ。露伴は若い頃、2年間、電信技手として、余市の分局にいた。帰りは、小樽から青森まで船で、青森から東京までは歩いて帰った。歩いて帰る道すがら、露を伴(伴侶)として、夜空を見上げながら、野宿のようにして眠ったことがある。そこで、「露伴」と号するようになったのだそうです。
札幌周辺にも句碑はたくさんあります。自分の結社にゆかりがある俳人・俳句作家の句碑なら知っているという人は多いと思います。一昨年3月に亡くなった木村敏男さんの句碑も、ビアガーデンのあった南区の紅桜庭園にあります。今トンネルができて便利になった盤渓にも、山岸巨狼さんの金属製の句碑がある。でも、意外と知られていません。
【森鷗外】
行春を只べたべたと印を押す
【夏目漱石】
山高し動(やや)ともすれば春曇る
【芥川龍之介】
春の夜や小暗き風呂に沈みゐる
水洟や鼻の先だけ暮れ残る
鷗外、漱石、芥川らも俳句を作っています。それぞれの全集にも入っている。漱石の場合は岩波新書でもまとめられている。
実は彼らも、北海道に多少なりともゆかりのある作家です。
鷗外は、北海道と縁があることをあまり知られていません。彼は陸軍の軍医だった。明治期から旭川には大師団があり、そこを視察に訪れている。そうした足跡を旭川の人も意外なほど知らない。
漱石は、日露戦争に徴兵されるのをよしとせずに、自分の籍を岩内に移したことが有名です。岩内には漱石転籍の碑があります。
芥川の「あの植物園全体へどろりとマヨネーズをかけてしまへ」という短句は有名です。これは道庁の裏の植物園のことです。改造社の円本、文学全集が出た折の記念講演で、函館を皮切りに北海道を数人で回った。その際、札幌の植物園近くの宿に泊まったらしい。うっそうとした緑の森が街中にあって、美味しそうに見えたのでしょうね。「マヨネーズをかけてしまえ」と。我々の年代はあれやこれや読んで、知っているけれど、今では風化してしまっている話かもしれません。芥川の「春の夜や~~」は、あの細い体で、たぶん木桶のお風呂でしょう、体が沈み込もうとしている。その様子を想像するだけでも面白い。
そのほか、近代文学史の全体を見渡すと、俳句歴のある作家は、軽く数十人、挙げることができます。子規や土屋文明は専門家ですが、それ以外にも詩人、ジャーナリスト、美術家なども俳句を作っています。北海道でも、山の俳句で知られた版画家の一原有徳さん。いろいろな分野で俳句が好きな人がいた。そのあたりを知りたい方は、高橋康雄さんの本(『風雅のひとびと』(朝日新聞社))を読むと良いと思います。
【吉村 昭】
春雷やまたも作家の死亡記事
貫きしことに悔いなし鰯雲
湯豆腐を頼むと成田から電話
さて、ようやく吉村昭です。吉村さんの俳句は、『炎天』という句集に全部入っています。「春雷や~~」の句は、少し散文的かなと思います。でも、吉村さんは筋金入りの俳句の人だったように思います。この一冊を読むととてもよく分かる。
学習院大時代に芭蕉が専門の岩田九郎先生という方がいた。吉村さんは、岩田先生の講義に、毎度のように遅刻する。遅刻ばかりする吉村さんを見て、(同じ講義を受けていた)津村さんは「いやね。あの人」と思っていたそうです。遅刻した吉村さんは、岩田先生の教卓の上に紙を置いて着席しました。「今日もまた桜の中の遅刻かな」とあった。岩田先生はうれしかったようで、叱りもせず、出席を認めたということです。
昔は食えない人の代名詞だった小説家。最近はスタープレーヤーまがいの人が増え、つまらない小説でも売れることがあって、真面目な小説はなかなか売れない。次から次へと絶版になっていく。原田康子さんや加藤幸子さんの本もそう。加藤さんは「千部しか出してくれない」と嘆いておられました。吉村さんは生前、作家らの暮らし向きをとても気にしていて、大型書店に並ぶ好きな作家の文庫本の点数を見て「この程度では食っていけないだろう」「何とかしてあげたいがなあ」と言っておられました。
【津村節子】
雨宿りした人と見る夕の虹
津村さんの俳句です。一緒に雨宿りしたのは吉村さんだったことは知られています。吉村さんは、普段、講演依頼を受けない方でしたが、ある日、さる省庁からギャラ50万円の講演のリクエストが来ました。同じ日に府中の刑務所から、囚人たちのために講演してほしいとの依頼もあった。後者の礼金は5千円。結局、吉村さんは5千円のほうを選んで話をしました。お金で動く人ではなかった。妻の津村さんも今は90歳で、たまの便りのやりとりが続いていますが、しっかりしておられます。とても魅力のある、立派な方です。吉村さんの逝去後に完成した津村さん主役、私が準主役の短編映画があって、賞(2015年度映文連アワード)をもらっています。いずれ上映する機会を作りたいと思っています。
【中村真一郎】
木枯らしや星明り踏むふたり旅
福永武彦の新婚に際して、中村真一郎が作った句です。中村真一郎さんが俳句好きだったと言うとビックリする人が多いですね。福永武彦と原條あき子、息子は池澤夏樹さんですが、二人の新婚のときにできた句です。めでたいときの作品。いいですね、夫妻の後ろ姿が見えてくる。ただ、これは私に言わせると短歌の世界に近いと思う。津村さんの「雨宿り~~」の句も、短歌的な抒情に近いと思う。この2句のムードは共通している。夫婦、男女の間柄を俳句にするとこういうふうになっちゃうものかと思いました。
【金子兜太】
人体冷えて東北白い花盛り
2月に98歳で亡くなった金子兜太の句です。兜太さんは「アベ政治を許さない」と揮毫しました。ネットでもそれが見られます。一緒に並んでいるのは、澤地久枝さん。説得力ありますよね。
●むすび
明日来ればななとせめぐる3・11
これはぼくが昨日、作った句です。テレビなどでは、3・11前後は特集などを組むけれど、段々忘れられていく。活字にして作品に残すことは、その人の思いを残す意味もあります。とにかく残る。ネット情報は拡散しますが、いずれは消えてしまう。最近の大学生は、月に本を1冊も読まない人が半数以上いると聞きます。とても残念なことです。
最後に一句。「雨霽れて別れは侘びし鮎の歌」。中村真一郎が、立原道造を偲んで作った句です。立原が生きているときに物語集を出そうとして付けたタイトルが「鮎の歌」。中村さんは、その編集にかかわっていた。こういう句を詠むと、俳句の力を感じます。
ところで、「鮎の歌」っていったい何だろうと調べようとします。今は、ネットで何でもパッと出てくる時代ですが、こういうものまでは調べきれない。紙の形、本であれば、その情報はずっと残ります。文学館はそのためにある。資料の保存、書物の保存をするのが文学館の大切な仕事の一つです。みなさんの中で、私同様、身辺をそろそろきれいにしたいと思っておられる方は、ぜひ文学館にもご連絡ください。資料の収集責任者は私です。担当の学芸員もいますので、よろしくお願いします。
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