俳句集団【itak】第22回イベント抄録
『いま、狸小路があたらしい!』
2015年11月14日 札幌・道立文学館
●自己紹介
漢字でもひらがなでも4文字の和田由美です。亜璃西社という出版社を営んでいます。ルイスキャロルの不思議の国のアリスから付けました。樹木図鑑やキャンプ場ガイドを発行しています。40年近く、ずっとオフィスが狸小路の近くにあります。狸小路の回し者ではないですが、今回は狸小路の魅力を語らせてもらえればと思っています。
①まずは、その歴史からひも解く。
1丁目から10丁目までを狸小路と呼んでいます。道内は新京極通りや五条新町など本州の地名が多い中、オリジナルで札幌で名前が付いたのは狸小路ぐらい。
開拓使が明治2年(1869年)に置かれ、大通公園を堺に北は官地、南が民地として発展しました。南側の西5、6、7丁目は開拓使の住居となり、味噌醤油を買う場所が必要で商店ができました。さらに駅前通りから西の方、1~3丁目に飲食店が多くできました。寄席や芝居小屋もできて、勧工場(かんこうば)というデパートのようなもの、小さな店が並ぶ横丁のような場所もできてきます。
そういう場で飲食店でおしろい付けた女性たちが酔客を騙したと…。そのあたりが名前の由来です。札幌は民間の人が作った町ではなく、ロシア、北方警備のために意識的に作った町。ブラタモリを御覧になった方もいると思いますが、札幌は和人2戸7人だったという記録が残っています。それが今は194万人。最初は男性ばかり来ていたが、(本州の家に戻らず)男性に残って仕事をしてもらうためにススキノ遊郭ができました。
狸小路とネーミングされたのは明治6年(1873年)です。
②雨露しのぐアーケード
昭和3年に鈴蘭灯が完成(鈴蘭の形のあかりがあるアーチ型の門)。商店街の人たちは言いたくない過去かもしれないが、酒、春を売るというのもありました。でも、どの都市の繁華街もそうです。狸小路がそこからさらに発展したのは、映画館ができたのが大きいのではないでしょうか。松竹遊楽館や第一神田館など。サクラビヤホールというビヤホールもあったんですよ。
昭和35年に第1次アーケードが完成。雨露がしのげて画期的でした。全道各地からいろんな人が買い物に来ました。羊蹄山麓の俱知安町の小学生だった私も、1丁目から7丁目までのアーケード、なんてすごいことだ!と感激。キクヤレコードは、田舎ではシングル盤を買うのさえ大変だったのに、そこには視聴室がありました。現金つかみどりとかもビックリしました。
③黄金回路と衰退
<黄金回路>
市電は12月にループ化されますが、当時はループでした。駅前から狸小路まで来て、まず金市館で下着を買い、丸井デパートで上のおしゃれなものを買い、買うかどうかは別として三越やサンデパートを回るのが黄金回路と言われていました。
さらに大きく変貌したのが1972年の札幌オリオンピック冬季大会です。
(写真を見ながら)金市舘や山福さん。山福さんはものすごい老舗で、開拓使の蕎麦職人として渡道したというぐらい古いんです。母の買い物待って、山福か鍋焼きうどんで有名な百留屋さんでお昼、その後のクリームソーダが楽しみでした。
今年1月に閉まった狸小路の中川ライター店もものすごい古かった。跡地は札幌ドラッグストアになりました。札幌の町は展開が早い。五番舘も無くなって、拓銀も地下の金庫の一部だけ残したけれども他は無くなって…。喪失感があります。建物の一部を開拓の村に移すというのも難しいようです。
アジア、台湾から来て札幌らしいところ歩いてみたいという人に、今の駅前ゾーンはどこの町とも同じような風景なので、わたしは昔から狸小路を案内しています。だいぶ変わってしまいましたが、はじとはじが面白い。真ん中の老舗はどんどん無くなっていて。
<横丁の衰退>
狸小路が衰退した理由の一つは、横丁がなくなったことと言われてます。狸小路は昔は南二条通と三条通に通り抜けができる横丁がいっぱいあったんですね。勧工場の名残、面影の横丁です。樺太の引き揚げ者3人で作った三京食堂のあった2丁目の共栄館とか。
ところが、札幌オリンピックに向けて、昭和40年代(1960、70年代)にコスモ(現・札幌ナナイロ)とエイト(現・アルシュ)という二つのビルが角にできたために、人の流れをせきとめてしまった。また、駅前通りを広げることで、路面店をビルの上の階に収容してしまって、人の流れが変わってしまったんです。
三越十字街に富貴堂という、すばらしい本屋さんがあったのですが、そこもパルコになった。富貴堂も勧工場出身でした。金市舘も小さなモスリン店やって大きくなったが、これも3丁目の勧工場出身。勧工場にはいろんな物語があるんですね。
札幌146年の歴史の中で狸小路は140年の歴史がある。狸小路の中に札幌の歴史が詰まっている。狸小路が元気になれば、函館の駅前商店街の人とかも元気になるのではと言われています。
<さらに新しい動き>
今はアジアの人達が爆買いに来ている。10~15年ほど前には、果物店で台湾の人がリンゴをじーっと見ていた。台湾の方はスイーツがものすごい好きなんです。ささやかな買い物を楽しんでいた。今は中国のお金持ちは薬や化粧品、おむつなどを買っている。6丁目にバスで来てとめる。ドラッグストア回る。
また、狸小路は今は3代目、4代目の時代になってきて、少しずつ変わってきています。今は静内で使われているらしいですが、鈴蘭灯もなくなって…。たくさんあった横丁が全部無くなって、回遊できない。たた一つ残っているのが狸小路市場。いなりという居酒屋やキムチという名の焼き肉店、札幌バルなんかがあります。
④狸小路の魅力
もう一つの狸小路の魅力は路面店であること。木造家屋に昭和の雰囲気が色濃く残っています。今の若い人は昭和の物が好き。上手に使っている。7丁目は第二次アーケード(昭和57年にできた)を作る時に離脱したので、古いアーケードが残っています。この古いアーケードのおかげで、無国籍アクションというか不思議な雰囲気になった。ここにはイタリア料理店やらスペイン料理や日本の居酒屋もあって。夏は外で飲めるようになっていて、非常に面白い通りになってます。
4、5、6丁目は割と老舗。今は7丁目から外れが面白い。若い人がいろんなお店作り始めた。7丁目には「たぬきスクエア」というのができて、いろんな小さなお店が入っている。8丁目には「タヌハチ」という小さな雑居ビルができました。そこにも小さな店がいっぱい入っている。歩いてみると、古い建物を上手にリフォームして使っている。ユニークで個性的で面白い。10丁目まで歩いてもらうと楽しいと思います。
市内にはなかなか古い商店街がありません。朝日新聞でレトロ建物グラフィティーという連載をしているので、本郷商店街とか発寒のほうとか探したけど残っていないんです。破壊と創造を繰り返して都市は進んでいくと言った人がいますが、札幌はその代表的な都市なんじゃないでしょうか。私は1972年の札幌オリンピックでどう町が変わって、何が無くなったかに興味がある。写真やスケッチしてないと残っていないんですね。
⑤狸小路テーマソングの変遷(会場で実際の曲を流しながら)
狸小路にはすごいコマーシャルソングがあります。
•「ぽんぽこサンバ」 これは昭和50年、小林亜星さんが作りました。
•「狸小路のうた」 昭和37年にできました。野坂昭如作詞、いずみたくさん作曲。歌っているのはボニー・ジャックスと朝丘雪路さん。どんなに狸小路にお金、勢いがあったか分かります。
•「狸小路ばやし」「狸小路の歌」 いかにも昭和の歌謡曲って感じです。(六甲颪や東京五輪のオリンピックマーチなどを手がけた作曲家)古関裕而さんが作っています。
1975年(昭和50年以降)は新しい歌はできていません。また、狸小路らしい歌がほしいですね。新しい歌を作ろう運動でもやりましょうか。
●最後に…
こういうサブカルのことを「グラフィティー」シリーズとして、ずっと書いてきました。「喫茶店」「酒場」「狸小路」とやってきて、今は道新で「老舗」を連載させてもらってます。前に朝日新聞で連載した映画館の話をまとめた「ほっかいどう映画館グラフィティー」も出ました。ご興味がございましたら読んでいただければ幸いです。
☆抄録 栗山麻衣(くりやま・まい、俳句集団【itak】幹事・銀化、群青)
0 件のコメント:
コメントを投稿