2015年5月30日土曜日

俳句集団【itak】第19回イベント抄録【第一部】



俳句集団【itak】第19回イベント

夏井いつきさんトークショー

『100年俳句計画』・『句会ライブ』

 
2015年5月9日 札幌・道立文学館

 



バラエティ番組「プレバト‼」の俳句コーナーで話題の辛口先生が札幌にやって来た‼ 
 
俳句集団【itak】は5月9日、19回目となるイベントを札幌市中央区の道立文学館(中島公園)で開き、松山の俳人で俳句集団「いつき組」組長、夏井いつきさんによる「トークショー」と「句会ライブ」を行いました。

4年目を迎えたitakのイベントとしては、これまでで最高の113人が参加。会場の同文学館講堂にはびっしりと椅子が並び、夏井さんの軽快なトークに笑いが絶えない、大盛況のイベントなりました。

第1部は、ともに「藍生」(黒田杏子主宰)メンバーの夏井さんと五十嵐秀彦さん(【itak】代表)によるトークショー。毎年夏に松山市で開かれる「俳句甲子園」や全国の小中高生を対象に開催している「句会ライブ」、「100年俳句計画」など夏井さんが携わってきた活動のほか、プレバトの舞台裏、俳句界の現状・課題など幅広い話題で意見を交わしました。

夏井さんは、俳句甲子園や句会ライブなど、これまでの自身の活動について「私の原点、すべてともいえるのが、『俳句の種蒔き運動』。俳句のすそ野を広げることで、今まで見られなかった(芸術としての)高みが生まれる」と強調しました。これに対し、五十嵐さんは「(俳句の)多様性をどうすれば作れるかを常日頃、考えていたが、夏井さんの話を聞くと、すそ野を広げれば自動的に多様になるのだろうと感じた」とこたえました。

第2部では、夏井さんが全国各地の小中学校で行っている「句会ライブ」を再現。夏井さんを司会に、参加者全員が5分で1句を作った後、各作品に対して議論しあい、投票してグランプリを決めました。グランプリには、鈴木牛後さん(上川管内下川町)の「扇風機むけば崩れるゆで卵」が選ばれました。

トークショーの詳報と爆笑の渦に包まれた句会ライブの様子を紹介します。

(※今回の講演は定員制で、予約開始直後に満席となりました。出席できなかった方々に、この場を借りてお詫び申し上げます)

 
 

 
第1部 夏井いつきさんと五十嵐秀彦さんのトークショー

 18年目の俳句甲子園

 五十嵐秀彦(以後、五) 実は、何を話すかというプランはありません。どうしようかと考えながらの講演にします。みなさん、(夏井)いつきさんのことは、ご存じだと思います。俳句結社「藍生」の会員、黒田杏子のメンバー。僕とは結社の仲間です。

 夏井いつき(以後、夏) きょうだい弟子です。

  年齢は僕のほうが少し先輩だけど、僕は藍生の結成7年目くらいに入った。いつきさんは、創刊の時からですよね。

  創刊からですし、黒田杏子さんの本を立ち読みした段階で、会ったこともないのに「私はこの人の弟子になる」と、その瞬間に決めました。そこから藍生が始まるまで何年もあるのですが、先生に一度も会ったこともなく、勝手に「黒田杏子の弟子」と言い出してここまで来ました。私も五十嵐さんも、東京から離れて、わりとわがままな活動をしています。黒田さんはわがままな、自分で勝手にやり出す人間のことが好きなんです。大事にしてくれます。

  外様でよかったなと思います。

  遠くのほうで「あなたたちの好きなように、やりたい放題やりなさい」と言ってくれる。あんな主宰も珍しい。口がでかいだけではなく、腹も太い。ブラックホールのように懐が深い人です。ときどき、やりすぎると怒られますけどね。私は、人生の中で怒られ慣れているほうですが、怒ってくれる先生、先輩がいるのはありがたいなと思います。俳句の都という松山、ものすごい保守的な地層の中であがいているころに、杏子先生がいろんな形で支えてくれた。精神的に支えてくれたことはありがたかったです。

  藍生からスタートして、その後、松山で「いつき組」というグループをつくったり、俳句甲子園に関わったり。この人がいなかったら俳句甲子園はなかったとも言えます。聞くところによると、いろいろ紆余曲折があったようですね。俳句甲子園は、この夏で18回目。当時の高校生が今年でプラス18歳にもなります。

  結婚して、子どもの手を引いて俳句甲子園に来てくれる。何だかお婆ちゃんになった気持ちです。親戚の子、孫がいっぱい来てくれている気になります。18年ってすごい。

 始まった時に生まれた子が高校生ですから。僕も地方大会を手伝って10年以上になりますが、当時に比べ、今のレベルは格段に上がってきている。同じ人が出ているわけではないのに、違ってきています。

 新しい子たちの吸収具合はとんでもない。

 いろんなところで揉まれると、あっという間に伸びるのが10代ですね。

 10代の恐ろしさは、俳句甲子園で試合のあるわずか2日間で伸びることでも分かります。最初、しゃべるのも下手だった子が、1日で相手チーム、審査員の話を聞いて全部吸収して、見違えるように変わる。

 夏井さんは俳句甲子園に対して、向こう見ずな馬力で引っ張ってきた。何か起こるたびに夏井いつきという名前が出てくる。藍生の仲間でもあるし、それを遠く離れた札幌で見ていて、すごいことやっているなあ、有名になってきているなあと。そう思っていたところ、テレビを付けたら、どこかで見たようなオバサンが着物を着て出ている。僕はテレビを見る方ではなく、偶然見たんだけど、だれかなあと思ったら、夏井さんだった。しかも、ダウンダウンの浜ちゃんと丁々発止でやっている。いつの間にタレント業になったのかと驚きました。あの着物は、ご自身のアイデア? それとも演出?

 

●番組の着物はコスプレ

 あれはコスプレ。あの番組(プレバト)を始めた若いスタッフたちは、俳句の「は」の字も知らない人たちでした。バラエティにカルチャーを採り入れようとして、分かんないけど俳句をやってみるかと企画した。何にも知らない人たちには、俳句といえば、着物を着ているオバサンというのが、型にはまったパターン。私が「普通の格好をしてますよ」と言ったら「とんでもない。用意しているので着物を着て下さい」って。あの番組が独り歩きしてくると、着物を着ないで外に出てもだれも気づいてくれない。しゃべると声でばれますけどね。トイレで手を洗っていたら、周りの人が、じろじろ見て「着物来てないしねえ」と言われることがしょっちゅうあります。やっと最近、ふつうの格好をしていても、分かってもらえますが、主に寄って来てくれるのは、50代くらいのおばさんと小学生。小学生は、お母さんやお婆ちゃんと一緒にテレビを見てくれていて、「俳句すごくいい」と真面目な顔で言ってくれる。おばさんたちは「ぎゃー」と来るが、小学生は真面目。「俳句、すごいと思います。お母さんはファンと言いましたが、僕は浮ついたものではなく、尊敬しています」って。小学生はすごいなあと思う。今日も小学生の子がここに来てくれていますが、お母さんはキラキラした、芸能人を見る目で私を見てますが、息子さんの真摯な目と対称的ですね。うちにはテレビがないので、自分のオンエアを見ることはないですが、DVDをもらって夫と見ていると、番組になると、こんなふうになるんだなと感じています。

 あの番組は、あちこちで話題になっています。こんな企画で(番組が成り立つのか)と思ったけど、俳句が好きな人だけではなく、人気がありますよね。ほかにも料理や生け花などのコーナーがありますが、俳句のコーナーが一番、人気だと思います。

 一昨年の10月に初めて収録に行きました。一回こっきりのオファーだったので、いつも通り言いたい放題、話しました。自分で言うのもなんですが、そうしたら司会者の浜田さんが笑いころげて、テーブルたたいて「おもろい、おもろい」って、さんざんモニターの向こうで笑ってたんですよ。(収録現場の)浜田さんと私の位置は、背中合わせのところにあって、地声が聞こえるくらいの距離なんです。収録が終わって、やれやれと思っていたら、楽屋にばたばたとスタッフが来て「次の収録の予定はどうしましょう?」と言われました。それから俳句コーナーだけは一回も休んでいません。(生け花の)假屋崎先生は海外に行ってお休みなさることがあるけど、俳句は休んでませんね。どうして人気が出たのかと考えると、俳句は、日本語なので共通理解ができ、瞬時にわかり合えるというのがあるのではないでしょうか。假屋崎先生の生け花は、墨汁とか剣山とかすごい技を使う。流派によっては「ホチキスなんて使うとは何事か」と苦情が来るらしいですが、俳句の場合は、思ったほどは偉い先生からクレームが来なかった。(番組を始めた)当初は「また俳句界の悪者になるんだなあ」と思ってたけど、特に大御所からは思ったほど(クレームは)来ていない。むしろ、高野ムツオさん、正木ゆう子さん、宇多喜代子さんらは好意的でした。宇多さんに「笑い転げるわ」と言われたら、かえって恐縮しますよね。正木ゆう子さんは、バラエティで俳句を取り上げるのは大嫌いですが、「これはバラエティに俳句を取り込んだのではなく、俳句がバラエティを征服しているからいい」と言っていたそうです。そういう話を聞くと少しうれしいですね。

 昨晩も夏井さんとご一緒した店で、従業員の女の子に僕が「あの人、知ってる? プレバトの…」と話しかけたら、「あー、見てます。大好きです」って。俳句を全くやったことのない人がたくさん見ている。あの番組は、夏井さんの面白さもあるし、浜ちゃんがあんなにうまい司会者だとは思わなかった。俳句という文芸をネタに、実に上手にやっていると感心しました。

 なんだかんだいって、(司会者の)浜田さんが一番、俳句のコーナーを見ています。モニターの向こう側から「真ん中のここがだめだと思う」と言う声が聞こえて、鋭いなと思ったら、浜田さんの発言だった。「何回、俳句のコーナー見てると思うとんや」と言われ、さすがだなと思うことがありますね。

 皆さんも俳句を始めたころ、そうだったと思うのですが、「五・七・五」「季語」は聞いたことあるけど、果たしてどうやって作ったらよいのかと思う人が多い。入門書は読めば読むほど分からなくなる。そういう人たちにとって、いつきさんの、ずばずば言うやり方は分かりやい。先ほど、いつきさんは「大物から怒られるかも」と言っていましたが、逆に(今の俳句は)整理されすぎている気がします。それに対して、俳句はそんなに狭くないぞ、と言う人はいる。「文芸にだめなものはない」という人がいてもよいはずです。

●俳句の「種蒔き運動」

 俳句と関係ない人がこれだけ面白がっているという事実と、一部の批判とは、次元が違うので、気にする必要がないと思いました。地方の俳句の先生が「あの番組で、閑古鳥の鳴いていた僕の教室に受講生がいっぱい来た」と率直に言ってくださったりするのも嬉しい。今までやってきた、俳句の「種蒔き運動」が新しい場面に来たと感じています。

 僕もそう思う。「俳句には、無季俳句とか自由律とかあるでしょ」という人もいるが、そういうことをやるならNHKの俳句番組を見ればいい。いつきさんが何故、バラエティでやっているのかというと、「種を蒔こうじゃないか」というところですよね。

 私の活動の原点で、すべてともいえるのが「俳句の種蒔き運動」。細々と種を蒔き始めたのは、俳句甲子園を作りたいという思いから。松山は俳句の都。私は、NHKや民放のラジオで俳句番組などをやってますが、マスコミの力が俳句の種蒔きに役に立つという実感はありました。今までこつこつと蒔いてきて、俳句甲子園も18年となり、「子供たちに教えようと思います」というOB、OGらが育っているという事実もあります。俳句の種蒔きを二十何年やってきて、どうにかなるんだなとは思っていました。ここまでは横ばいでじわじわと増えていく感じだったのが、バラエティの恐ろしさは、横ばいだったのが、「バコーン」という感じで上がる。あの番組は、俳句に全く興味もない人が、いきなり「面白い」と言ってくれる。番組で一番心掛けているのは、難しいことを分かる言葉で話すことです。優しい言葉、簡単な言葉でちゃんと話せば、縁のない人も興味というフックが掛かってくる。もう一つ、どんな下手くそでも、下手であるからこそ、そこにある個性、その人が何を表現したかったかは、絶対に変えない。この人が言いたかったことを何とかして実現させる。この両輪を考えて、やっています。へんちくりんな句が、ちゃんとした句になると、心に転がり込んでくる。言葉の化学変化を、素人の方が本当に面白いと思ってくださっている。番組に出ている芸能人の方々が、俳句のコーナーでは、芸能人の顔でなく、普通の人の顔になっています。「最下位にになったらどうしよう」とか「良い句じゃないですか」と。添削後に素で喜んでくださったり、次々と質問をしてくれる。仕事のためではなく、本当に俳句に食いついてくれている。テレビの前の視聴者の皆さんも、タレントさんといっしょに疑似体験することで、「俳句やってみようかなあ」「私だったら、あれほどは下手でない」と思ってくれる。ハードルを下げてくれている。これがありがたかった。

●化学変化が楽しい

 五十嵐さんが先ほど言った「入門書が難しい」というハードルは、私たちが思っている以上に高い。「歳時記を買ったけど、漢字が難しくてだめ」と言う人もいる。プレバトを見て面白いと思ったら、小さなハードルを超えてくれることになる。私は中学の国語教員でしたが、国語嫌いな子ってどこの学校にもいます。ただ、どんな授業でも、一回だけ面白いと思わせたら、こっちの勝ち。「今日の授業、むっちゃ面白かった」と一回言わせたら、言わせなくても教室の空気で分かるんですが、次の授業からは普通のことをやっても、こっちを向いてくれる。この番組も、一つの教室でやっていた授業と同じ感覚でしたね。

 夏井さんは学校の先生を辞めたけど、結局は「先生」をやっていますね。結局、天職だったんだねえ。

 句会ライブでは、俳句に興味のない何百人もの小学生に、5分で1句を作らせる授業をやっています。小学生は無邪気で面白がってくれるけど、中学生になると興味がないと振り向きもしない。高校生にいたっては話すら聞く気がない。そういう現場の中で、教えるのが好きだけなら、うんざりで嫌になりますよね。でも、「奴ら」、あえて「奴ら」といいますが、オセロの盤で黒がどんどん白に変わるように、こっちを向き始め、2時間の授業が終わるころにはみんなが腹を抱えて笑ったり、拍手が起きたりする。たかが言葉、たかが俳句で、わずか2時間で起こる化学変化が楽しい。だから続いていると思います。中学教員という苦難を何年か体験していることもあると思います。私が教員のころは校内暴力がはやっていたころ。日々耐えられなくて、わずか1年で新採用の教員、特に女性の友だちが辞めていった。そんな時代でした。そんな子たちを相手にさあ、どうするか。今となっては、その経験が、大勢の中学生を見ても、びびらない理由かもしれません。いろいろなことが、今の仕事に反映されている。無駄なことは何一つなかったと、あらためて思っています。

 学校の先生は、自分の教室の生徒、限られた範囲ですよね。例えば、句会ライブやプレバトなどは、(俳句を)さらに広げようとする意図を感じます。中には、広げなくたって、仲間内で良いものをつくればいいと言う人もいる。そこを、いつきさんが何年もかけて広げていこうとした理由はどこにあるのでしょうか? 

 当時、30代の俳句好きな人間でしかなかった私が、俳句の都、松山で俳句をやっている人間として、松山が正岡子規の遺産を食いつぶしているのではないかと感じました。さらに日本の俳句の状況を見たときに若い人がいない。俳句を始めた教員時代、22、23歳のときに、同世代の人がだれもいない。30代、40代になっても若手。俳句の世界だけですよね、新人賞が60歳とか。すごい危機感を持ちました。「私が日本の俳句界を背負っている」と思うほどの危機感があった。子規さんたちは、高校生のころに「俳句面白い」とやっていた。「正岡のノボさんと付き合ったら不良になる」と言われたほど面白い遊びだと思われていたのに、今は、高校生はおろか、20歳、30歳でも俳句をやる人は少ない。こんなことで良いのかと疑問を持つほど、俳句を好きになっていたということもあったのかもしれません。当時、俳句の総合誌に堂々と「俳句は心の文学だから広げなくて良い」と有名な俳人が論説を書いていた。読んだときに「バベルの塔」ではないかと感じました。文学、芸術は、何らかの形で自分の高みを目指すものというのには反論はなかった。でも、広げなくていいなら、足元からボキッと折れるのではないかという危機感がありました。どうして若造だった私が、そう思っていたか今では分からないのですが、ものすごい危機感があった。

●俳句は強靭な文学

 本当に美しい山というのは、高さに加えて、広さがある。美しいすそ野がある。山を高くするためには、広いすそ野がいる―ということが心の中で確固たるものになっていった。「芸術は高くしていくことが本質で、広げることは逃げではないか」と言われることがあります。「高める」ことと「広げる」ことは相反することではないと思います。広げることにより、たくさんの人が俳句することにより、互いに切磋琢磨する人・空間・人脈が広がっていく。それが最終的に、俳句という文学を今までになかった高みに引き上げるはずだと。高めると広げるは相反しない。高めることと楽しむことも相反することではない。その確固たる思いがありました。俳句は強靱な文学です。17音しかないけど、どんなにはちゃめちゃに楽しんでも崩れるはずはない。強靭な背骨で立っている。何の遠慮無く、一緒に楽しみましょう、広げましょう、その先に一緒に高まって行きましょうという理屈が少しずつ出来ていった。そうすると、批判されても気にならなくなりました。批判されても「ご意見として参考になります」と言いながら聞かない。俳句の種蒔きをやめる気はなかった。同時に自分自身の作品、書くモノを高める気持ちも失っているつもりはありません。

 そうですよね。今の話はその通りで、僕も同じような事を言われます。広げようとする動きをすると「楽しむことが俳句ではない」とか「広げるから深めることができない」とか必ず言われるが、何か違うと感じていた。広げるのは逃げではないかというのは、ごもっともっぽく聞こえるけど、何もごっちゃにする必要はないという思いがある。

 そうですよ。松山は保守的な場所ですが、俳句を始めたころ、結社という括り、よその結社との交流も御法度のような括りに、反発を感じました。地元の大御所の先生と喧嘩して、松山で完全に干されて、たった一人ぼっちになった。不思議なことに結社間の連絡網があるんですね。私はブラックリストに載ってしまったので、どこにも入れてもらえませんでした。一人で吟行して、牡丹を見ていたら、以前の仲間たちがいて、手を振ってくれたんです。2、3言話して別れただけなのに、後になって、私と言葉を交わした人がつるし上げられる。こんなことやってたら、俳句はバベルの塔どころか、根腐れして自滅してしまうという思いがありました。干された状態で何をやろうかと思ったときに、もっとフラットなところで、本当に俳句をやってみたいという人が広場に集まってくるような場を考えました。俳句のいろはを覚えて、句会の楽しさを覚えて。そういう場を作りたい。広場の中で勉強したいと思った人に、いろんな俳人の作品を紹介して、「あなたなら、あそこの師匠についたほうがいいよ」と教えてあげる。俳句は職人が技を継ぐようなところもあるので、先輩や先生に育ててもらえることは絶対にある。結社は、あって悪いことはないけど、最初から結社に閉じ込めて、絶対に出さないというのはダメではないか。そこから「いつき組」のような発想が出てきました。

●反結社とは思わない

 いつき組は夏井いつきの結社の隠れ蓑と言われますが、そんな括りの気持ちはない。「いつき組にはどうやったら入れるんですか」と聞かれるけど、「楽しいと思ったら、きょうから組員と名乗ってください」と言っています。本を買うとか、会員登録とかもないし。句会ライブに行って、帰り際に小学生が「きょうから僕らも組員です。組長」と手を振ってくれたり。松山の市電に乗っていたら、知らない方が「組長でしょうか」って聞かれたので、「はっ、そうです」と答えたら「私、組員なんです」って。そんな形のイメージで「いつき組」を作りました。そんな中、五十嵐さんが北海道で【itak】という集団をつくっていると聞きました。itakの一つの理念も、いつき組が最初に求めたフラットな広場とだと伝わってきた。「これはお兄さんとエール交換しに行かねばならない」と思っていました。最初に五十嵐さんが「夫と一緒にitak見に来る」と言ったように、講演するというよりは、itakを見に来るつもりだったんです。

もともとこのお兄さん、へそ曲がりでしょ。そのお兄さんがこういうことをやっている。同士が北海道にいる。勝手なイメージですが、北海道って自由な大地みたいな感じがあるでしょ。北海道でitakといえば、いろんな人がアクティブに集まって、いろんな刺激的なことをやっているんではないかと思った。そんな話が聞きたいと北海道に来ました。itakも立ち上げたときにも、いろいろあったと聞いています。

 北海道も決して自由な大地ではないですよ、俳句に関しては。北海道も、結社で十分にやれていた時代が続いていた。それが少しうまくいかなくなってきた。結社の方法論にこだわるという言い方は失礼かもしれないけれど、今はそれ以上のものが見つけられない状態だと言えます。いつき組もそうでしょうが、itakも全然、反結社ではない。いつき組の会員が何人か知らないと言ってるけど、itakも同じで、会員の数は分からない。1回くれば会員というのも同じ。これからはこの形で行くけど、結社は要らないとは思ってない。

 私も思っていません。会費がないと運営できないとか、結社なりのしんどさはあると思いますが、結社で丁寧に鍛えてもらうという場は、ものすごい力になる。私自身もそうでした。先生と一緒に句会ができる環境ではなかったけど、教えてもらいたいと信じた先生に、黒田杏子さんに、投句して一文字変わって掲載される。その一文字の意味を、先生の選から、こちらが読み解いていく。こちらが勝手に学び取っていくシステムは俳句にとっては有効な学び方です。私は句会には行けず、結果だけで独学していたけど、ぶれずに来ることができたのは、黒田杏子という軸があったから。どんなに迷っても、必ず戻る場所がある。それが一番ありがたかった。だから、いつき組も「結社なんてだめだよ」とは一言も言いません。むしろ転勤族の人が松山に来て、俳句と出会って東京に帰るとき「だれについたらいいですか」と相談に来る。「こことここに行ってみて、比べて先生と気が合ったほうに決めたら」などと斡旋業かのような感じもあります。

 itakも最近、斡旋業になっています。結社に入って先生と自分との関係で、俳句を極めていく。ただ、結社には先生しかいないというわけではなく、先生以外にも(会員に)いろんな人がいる。あれって、言っていいかなあ……、じゃまだよね。

 恐ろしいことを、いきなり言いましたね。言いたいことは、肌で分かる部分はありますが。先生と一対一で結ばれることによって学ぶというところが師弟関係の本質という面は確かにありますね。

 「じゃまだ」と言ったのは、(結社の人と)友だちになれないというわけではなく、結社の中で、主宰の入らない小さな句会が出来てくる。その小さな句会を、必ずしも結社が生かしていないことがしばしば感じられる。先生の代わりになるような人が登場するんですが、代わりになった人って本当に先生の代わりになるのかな……って。結局、みんなで平凡な同じような句を作って、上手になったと喜んでいるのはどうかなと思う。結社も大事なんだけど、変わっていかないとだめ。結社だけではやれる状況ではなくなっていると思います。

 特に若い人たち、俳句甲子園を卒業したような若い俳人が続々増えています。初期の俳句甲子園OG、OBのトップランナー、神野紗希、山口優夢、佐藤文香など。すごい勢いで育っている。結社に入っている人もいるけど、なぜ若い人が積極的には結社に行かないのか。それを、若い子たちのせいにしてはいけない。大人の世代が、もっと魅力的な何かをやっていたら、彼らは面白いことには飛びついてくるはずです。大人たちがちゃんと見せて「俳句やっている、あそこの大人がかっこいい」とか「北海道の五十嵐さんってなかなか粋なことやってるぜ」とか。俳句をやっている大人が、モデルを見せていかないといけない時期だと思います。

 そこで、いつきさんは、いつき組を作り、継続的に活動している。結社ではないが、そこに一つの考え方の柱が出来てきた。それを今、「100年俳句計画」という看板にしてやっています。「100年俳句計画」とは何かを聞かせてください。

●100年後を楽観視

 最初のころは干されたところからの出発でした。何が出来るのかと考えて、俳句の授業を始めました。なぜ俳句の授業かというと、俳句甲子園をやりたいという夢のためでした。それがみなさんにお配りした図(図参照)の「1、教育、文化」という部分です。一人で細々と活動を始めましたが、そのうち、俳句で子どもたちにこんな教育ができるんだと賛同してくれる人が増えてきました。自分たちも教えたいという人が出てきた。子どもに教えるには、パターンがあるので、それを覚えれば、ひとまずは教えることができます。俳句というもので「教育・文化」のさまざまことができる。それがどんどんと広がり、「日本俳句教育研究会」というものを、愛媛大学の教育学部の三浦和尚さんと立ち上げました。句会ライブでうまくいったことをお分けする。その後、いろんな人が俳句に興味を持ってくれ、どんどん膨らみました。最初に飛び火したのが、図の右下にある「3、観光と経済」でした。松山は俳句の都で、俳句がいろんな形で使われています。子規だけではなく、俳句そのものの面白さに触れてもらうイベントをやろうと。高校生だけにやらせるのはもったいないと、大人のための「まる裏俳句甲子園」をやろう。さらに発展して、俳句の愛好家の人が松山に来て、吟行をしながら楽しめるような環境も整備されつつあります。実は私は、松山市の「俳都松山大使」に任命されることになりました。市長が俳句でまちをアピールできるという考え方を持ち始めた。俳句甲子園も、最初は親御さんなんて応援に来なかったけど、今や東京の開成高校などの親御さん、一族郎党がスーツケースを引っ張って、松山にやって来る。宿を取って、観光してくださり、お金が落ちる。次に「2、医療・福祉」(左下の図)の現場で、高齢者の認知症予防、鬱傾向の人の心の改善にも俳句が使われるようになってきました。俳句をやると、自分を客観的に見るようになるといいます。医療現場で出来る句会ライブを開発したりしました。

国際俳人でもあるEUの前大統領・ファン・ロンパイさんが来日した際に、東京に来るだけでも大ごとなのに、何が何でも松山に行きたいといい、忙しい日程を調整して松山に来ました。松山の若い市長がヨーロッパに行った際、海外での俳人の多さに驚いて「松山は世界に向かって俳句で発信する」と言い出しました。「100年俳句計画」をスローガンにして、俳句の種蒔きをしようというところから、今はそんなに広がっています。100年と打ち出したときに、組員たちが「また組長が大風呂敷を広げている。いつも広げては首を絞めるのが組長だ。100年後にはだれも生きてないよ」とさんざん言われたけど、教育、文化は100年先を見通して種を蒔かないと廃れていくという思いがありました。森に植樹するようなイメージでした。私たちが死んでも、高校生たちがこのスローガンをもとに、次の種を蒔いてくれる。それを継続することに日本語の未来、俳句の未来があると思います。自分が死んだ後のことを楽しめる大人になろう、自分の蒔いた一つの種が芽を出すことを夢見ることができる俳人になろうというのが、私たちの掲げている精神です。

 それがプレバトであり、俳句甲子園でもある。だから広げていく。すそ野を広げないと生き残れない、先がない。

 俳句は、作品としてやり尽くしたのでないかという、あきらめムードがあります。でも、それだって、すそ野が出来たら、今まで見られなかった高みを誰かが見せてくれるかもしれない。その一人が私だったら、めっちゃ格好いいけど、私でなくても、高みを見られる可能性を作るためには、すそ野が必要。さらに高いところに行かないと永遠に俳句の高みは見られない。

 俳句の動きをみると、ある程度の洗練の時代が続いて、そのことは決して悪くはないけど、多様性は失われてきている。だから、多様性をどうすれば作れるのかと常日頃、考えていたけど、今の話を聞くと、多様性を作らなくても、すそ野を広げれば自動的に多様になるということですね。

 恐ろしいくらい多様になるでしょう。「俳句はこうあるべき」とは絶対に言いません。芸術に対して「こうあるべきだ」と言った瞬間から、根っこから腐っていくと思う。すそ野を広げること、こうあるべきと言わない、枠をはめない。それだけで多様性を実現できるのではないかと、100年後を楽観しています。

 いつきさんは、松山という環境の中で苦労して、土台をつくり、次の100年を見ている。北海道はどん底にあって……。

 そんなことないですよ。今日だって、これだけの人が集まってます。ここに集まっているは、結社などの括りではなく、バラバラだと聞きましたよ。

 100年とは言えないけど、かなり下まで落ちたものを少し上げようとして、やっています。5年後の計画くらいは立てようかなと思っています。

 五十嵐さんのバイタリティは本当に恐ろしい。松山も負けないように頑張りたいと思っています。

 われわれも密かに松山をライバル視して、頑張っていきたい。これからはお互いに情報交換して、やっていきたいですね。

 お互いに交流会もやりたいね。北海道から松山、松山の組員が北海道に吟行に行くとか。

 そういう企画を立てたいねえ。

 松山は良いところなので、ぜひ。

  それでは時間も来たようなので、以上で一部のトークショーを終わりたいと思います。

 

※第二部(句会ライブ)は後日、掲載します。

☆抄録 久才秀樹(きゅうさい・ひでき、俳句集団【itak】幹事・北舟句会)

2 件のコメント:

  1. 藍生会員です。FBでシェアさせていただきます。

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  2. ありがとうございます。
    第二部の記事もご高覧下さいませ。
    近日公開予定です。

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