2014年9月1日月曜日
震災俳句の難しさ ―『のいず』創刊号 を読む― ~鈴木 牛後~
高井楚良、澤田和弥両氏が発行する同人誌『のいず』創刊号を読んだ。
両氏は浜松市在住とのことで、関東でも関西でもない「ローカル」が強く意識されている。このことは、浜松以上にローカルな北海道に住む私も(もちろん【itak】も)つねに意識していることだ。まずは、ローカルから発信する同人誌の発刊を喜びたいと思う。
一読興味を惹いたのは、高井楚良氏の『「黒い浪」を読む』という俳句作品と、同じ作者による論考『読み手がいない(一)「新聞俳壇」』だ。後者は、全国紙各紙の新聞俳壇に掲載された、東日本大震災をテーマにした多くの句から、俳句とは何かを考察している。
高井氏が言いたいことは、新聞俳壇の選は、選者の思いで行われるもので、句の良し悪しがそれで決まるのではないということなのだろう。大家の選が絶対なのではなく、一人ひとりが自分の選をするべきなのであり、それをどこかに委ねてしまうのは思考停止にほかならない、と。
震災句を安易に作るのは思考停止だが、まったく視野の外に置いてしまうのも思考停止なのかもしれない。私は後者のスタンスで今まで過ごして来たように思うが、高井氏の俳句からは、少なからずそのような私の意識が攪拌されるのを感じた。
想定の中の暮らしや冷蔵庫
「想定外の津波」という、(多くは批判的な文脈で)何度も耳にしたフレーズをもじっている。「想定の中の暮らし」と言うことで、想定外の事態とすぐ隣り合って暮らしている現実を露わにしているのだ。冷蔵庫という、あって当たり前、なければすなわち非常事態となる器具と取り合わせることでその危うさを際立たせている。
東北を遙か北窓を開きけり
遠方の地から詠んだ句として素直に読める。被災地から遠くあってどうしようもないけれど、北窓を開いて春の光を入れるという行為に思いを託しているのだろう。
それでもなお限界も感じた。
春泥やかたち変らぬランドセル
のような句は
喉奥の泥は乾かずランドセル 照井翠
のような切実さを ―俳句を通してでしかないにしても― 一度は感じた身としては虚しく感じてしまう。それだけ震災を詠むというのは難しいことなのだと改めて感じた。私自身はやはりこれからも作らないだろうと思う。
☆鈴木牛後(すずき・ぎゅうご 俳句集団【itak】幹事 藍生)
※『のいず』購読お申込は以下にお問い合わせください。
発行人 高井楚良 澤田和弥
E-mail aroundenduser@gmail.com
年間購読料 500円(年二回発行)
高井楚良です。
返信削除金子敦さんから知りました。
ちっぽけな同人誌を取り上げて頂き有難うございました。
これからも、宜しくお願い致します。
コメントありがとうございます。
返信削除意欲的な雰囲気が満ちていて、ひきこまれて読みました。
次号を楽しみにしています。