2014年7月20日日曜日

俳句集団【itak】第14回句会評 (橋本 喜夫)


俳句集団【itak】第14回句会評

  
2014年7月12日


橋本 喜夫(雪華・銀化)
 


 1回休むととても久しぶりな気がして可笑しい。さて今回は琴似工業が学祭ということで、若者が欠席。アダルトな句会になった。それでも40人を超えるとは大したもの。毎回のこの欄の担当は辛いので時々休ませてもらうことを条件に今回も喜んで担当する。山口青邨が「モテイーフが季語を選ぶ」と言っているが、その通りと思う。最近この言葉に私は凝っており、俳句は詠みたいモテイーフがあって、その後季語が決まる作り方と、モテイーフの中に季語が内包されていれば、すこしずらしたり、すかしたりして、工夫して季語の説明にならないように作る。有季定型で俳句を作る場合極論すればこの2方法しかないように思う。さて今回も気になった句を沢山紹介したい。
 
 君といふ未踏の大地雲の峰       松王かをり
 
 君になりたいと恥ずかしながら思うのは私だけか。この句のモテイーフは作者の詠みたい「君」がいて、そのひとは未踏の大地であるというのだ。まだ足を踏みいれていない未踏の可能性を秘めた魅力的な人間を未踏の大地でメタファーし、そこに季語が選択される。「雲の峰」が決まる。作者の実力からすれば75点の季語のような気がする。それは「未踏の大地」という措辞から順当につながりすぎる気がするから。しかし「未踏の大地」に対抗できる天文、地理の広大で、人智が及ばないような季語があるだろうか?難しい。
 
 買ってすぐ壊れるおもちゃ夕焼雲    瀬戸優理子
 
 中七までの措辞で、日常に潜むはかなさ、こわれやすさ、おもちゃで遊ぶ子供たちの敏感さ、脆弱さ、はたまた倖せな日常のほんの少しの毀れやすさ そんなところがこの句のモテイーフであろう。そこで来るのが夕焼雲。晴れていれば毎日見れて、平凡に起こる現象である。雲であるからいろいろに形が変わり、その可塑性が「壊れやすいおもちゃ」に通底する。悪くない選択だと思う。
 
 風鈴のジャズダンスより激しかる    山田  航
 
 この句は詠みたいモテイーフが激しく風に揺れてなる風鈴がジャズダンスより激しいという発見であろうか。すでに季語が内包せれているので作者は、俳句にめったに使われない「ジャズダンス」を比喩あるいは比較として持ち出して、その激しさを表現している。ところで短歌人が詠む俳句の一般的特徴を自分なりに羅列すると「切れ字をあまり使用しないこと」「かならず読後に余白感覚、物欲しげな感覚、付け句を付けたくなる感覚を起こすことが多い」「そして掲句のようにモテイーフに季語が内包されやすいこと」などがあるか。その他モテイーフに「相聞」が多いなどもあるかもしれない。三番目に述べたことが起こりやすいのは短歌人はまず「そういえば季語を入れなくちゃ」という意識が働くからかもしれない。
 
 無花果や吾れ屈葬を遺言す       青山 酔鳴
 
 何か落ち込むこと、体調の変化があったのか、作者は遺言として「屈葬」を望んでいる。これがこの句のモテイーフ。無花果の選択は異論があるところだが、世界最古の栽培果樹、花が咲かないうちに実がなる、無花果を使用した生死にかかわる句が過去に多い、鳥に食い荒らされることが多く鳥葬のイメージも湧く、などなどこのモテイーフに選択されて当然といった気もする。
 
 ハンモックなんであおいのうみとそら  酒井 英行
 
 最高点句である。とった俳人は会場に参加していた可愛い子供が作ったのではと思ったのだと推察する。かくいう私も採ろうと思った、ただし「ハンモック」という季語の選択があまりにうまいので、ぎりぎりで思いとどまった。中七以後は三尺の子供の気持ちで作ったのが成功した大人の句である。
 
 若きらが佇んで小蟻を通す        井上 康秋
 
 モテイーフは「ちゃらちゃらした何の知性もない若者たちがうんこ坐りや、屈みながらたとえばコンビニの回りを屯している。そいつらをよく見ると小さな蟻の進む道を邪魔せずに、踏まずに通してやっている。こんな奴らでもいいところあるのだな。少しほほえましい作者の発見がモテイーフである。「若きら」という措辞がはじめはあまり好ましく思ってなかった感覚が伝わってくる。この句はモテイーフに季語が内包されているが、モテイーフそのものが発見であること。そして中七から座五にかけての句またがりが、工夫されていて何とも言えぬ味が出ている。
 
 ぎいとなくせみがたくさんがっこうに   ともやっくす
 
 まずひらがなにしたのが成功している。上五の「ぎいとなく」で、この句のできがきまった。倒置法になっているので、韻文性もある。なにより子供らしさにいやらしさがない。この年齢ならばこの素直な詠みができれば十二分である。
 
 柳絮飛ぶ時間のおもり放ちけり     増田 植歌
 
 晩春の季語。柳絮。綿毛のついた種子である。この句のモテイーフは柳絮の飛ぶさまをみて、作者は時間もおもりを放っていると感じたあるいはメタファーしたのである。「時間」を俳句のモテイーフにするのは難しいといわれるが、この句は「時間のおもり」という措辞がいやみがなく、柳絮の隠喩として効いていると思う。綿毛によって浮力がつき、風に載って遠くまでゆき、種子がおもりになって落下傘のように、咲きたいところに落下して子孫を増やしてゆく。また飛び立つさまを「放ちけり」と言い切ったのもこの句の見どころである。
 
 額の花喜怒哀楽に距離を置く       西村 榮一
 
 モテイーフは中七以後であろう。作者は「喜怒哀楽」という人生の極端な感情に距離を置いて、淡々と日常を生きたいと願っている。まずこのフレーズが格好良い。こういう生き方は難しいが憧れるときもある。そこで選んだ「額の花」がとても良い。紫陽花の母種ではあるが、梅雨空の下ひっそりと、清楚に咲く姿はまさにさもありなんである。この作者、季語や俳句に対して膨大な知識があるので、「数々のものに離れて額の花  赤尾兜子」という句も下敷きにしているし、「額縁」のように隔絶されて見えるのがこの花の特徴なので、すべてを知った上での選択である。周密な季語選択である。
 
 金魚に影鋭角に居る和紙の上      高畠 葉子
 
 和紙に映る金魚の影が丸みを帯びないで、逆に鋭角に映っている。それをそのまま句にした。金魚の句でその姿を詠まずに、映った影ばかり詠んだのはとても珍しい。モテイーフ選択も成功している。ただ私ははじめ読んだとき、「金魚掬い」で和紙に載ったときの金魚がもがいている影を描いていると誤読した。誤読をなくすためにもう一工夫必要かもしれない。誤読も面白いのだが・・・。
 
 本降りの雨掃き出して夏芝居       籬  朱子
 
 さりげないのであるが、よくできた句である。十七文字すべてがモテイーフになっている。「雨の日の夏芝居」の本意ではなかろうか。「本降りの雨掃き出して」までの中七がリアルで、夏芝居を観る前のこころの小さな高まりを示している。
 
 炎天をきて水音のグラスかな       松田 ナツ
 
 見過ごされがちな句だが目が効いた佳句である。この句も十七文字すべてがモテイーフになっている。作者は炎天のなか自宅あるいは友人の家に急いでいる。土産によく冷えた飲み物あるいは氷菓などを持参したかもしれない。そこで出されたグラスには水音がしたというのだ。いかにも冷たそうで飲みたいという気がするではないか。炎天下を歩いてきた作者の渇きも水音のグラスで爽やかに表現できている。
 
 無人駅ちょこんと置かる夏野菜      深澤 春代
 
 無人駅の待合室の椅子のうえにでもそっと置かれた夏野菜。無人駅であるから静かさもあり、いかにも気持ちのよい景である。リアルでもある。この句は「置かる」が問題であろう。連体形にするなら「置かるる」にすべき。ここは連用形にして「置かれ」で句が締まると思う。
 
 少年の肩うすくしてアロハシャツ      小張 久美
 
 少女でなくて少年であるところがリアルであり、現代的である。たしかに今の少年は華奢な外形が多くて、びっくりする。アロハシャツというすこし大づくりなゆるい、涼しい着衣であるからなおさら、その肩の薄さが目立つのであろう。中七「肩うすくして」の措辞がよい。
 
 タンポポの花壇に入るタイヤかな     深澤 春代
 
 点は入らなかったが、とてもモテイーフが面白い。花壇に埋まっているタイヤに焦点を合わせて詠んだ句は今までなかったのではと推察する。視点はいいのでタイヤに焦点を合わせて詠めばよいと思う。またタンポポのカタカナがタイヤのカタカナと喧嘩しているので、ここは漢字が佳いと思う。たとえば「蒲公英や花壇に埋まるタイヤあり」あるいは「蒲公英や花壇に埋もれたるタイヤ」などとしたら、もっと点が入ったのではと愚考する。
 
 階段を人型香水降りてゆく        福井たんぽぽ
 
 高点句である。この句のモテイーフは体中が香水の塊じゃないかと思うくらいのけばい匂いをさせている女性を人型ロボットならぬ「人型香水」と揶揄したことである。発想が少し川柳的なので、採らない人もでてきたのであろう。中八であるがあまりに面白く採ってしまった。「人型香水階段降りてゆく」と8+9の17文字で納める方法もあるだろう。
          
 野良猫の啾く十薬の生え放題       田口三千代
 
 「十薬の生え放題」という止めがとても十薬のさまを生き生きと示している。十薬とはこんなものである。「どくだみ」としなかったのは、つきすぎの感じが出てしまうからで、私も十薬としたのは賛成だ。「啾く」という漢字を使ったのも「すすり鳴く、小声でなく」という感覚を出したい作者のこだわりであろう。
 
 夏季講習あの大楡の見ゆる席       松王かをり
 
 作者は夏期講習の講義をする立場であるが、夏期講習を受けるころの青春時代の回想句または作者からみた生徒たちの句なのであろう。モテイーフはわかりやすい。夏期講習という季語が内包されている。ここでの工夫は「あの」という措辞である。坪内稔典の「帰るのはそこ晩秋の大きな木」の「そこ」と同じように「あの」が効いている。
                                       わかこ
 荷台にはどかあつと西瓜西瓜売り     齋藤 嫩子
 
 この句は西瓜西瓜のリフレインの佳さと、「どかあつと」のオノマトペの面白さ。
後者のオノマトペに関しては異論があるかもしれぬが、西瓜 西瓜売りと畳みかけることによって荷台いっぱいの西瓜が見えてくるようである。
 
 心太恐らく性別は女              後藤あるま
 
 わたしのまわりに座っていた俳人は心太の性別は男だろうと言っていた。たしかに今までの「心太俳句」では男が主役であることが多く、冷や酒+心太というパターンで男なのであろうか。しかしあえて作者は女と言った。つるつるしたところ、冷え症なところ、冷たい感じ、ぷるぷるしたところ、そう言われてみればそうである。俳句にはドグマが必要である。
 
 伐採の楡と引きあふ夏の月         平  倫子
 
 老木化してこのままだと危険であると判断された、楡大樹であろうか。もうすぐ伐採されることが決まっている楡の木を夜見上げると背景に夏の月が上がっている。それはあたかも倒れそうな楡の木を引っ張っているかのようである。逆に楡の木は夏の月を引いているかのようである。楡の木を惜しむ作者の感覚が伝わってくる。
 
 七夕の星に傾く俳諧師            五十嵐秀彦
 
 最後まで魅かれた句であった。俳諧師の置き方が唐突で、脈絡がなく可笑しい。かといって俳諧師らしくなく、「星に傾く俳諧師」というフレーズが俳諧師に似合わないくらいに格好よいので笑ってしまう。ただこのフレーズ耳ざわりは佳いのだが、実際は何のことだかよくわからないのが、瑕瑾でもあり長所でもある。
 
 半夏生銃の影踏む朝の夢          長谷川忠臣
 
 まさに危ない現在の世相を活写した句。夢だけでおわればいいのだが。この場合の半夏生の季語は不穏、縁起の悪い措辞には適合している。だから私も喪の句だとか、生死の句だとか、病気の句だとかに多用している季語である。半夏生は7月2日ころで七十二候の一つで、この日雨が降ると大雨になりやすいとか、さまざまな禁忌があり、物忌みをする日なのでこのようなモテイーフに選択されやすい季語である。
 
 
 
以上です。またお会いしましょう。
 

 

※喜夫さんありがとうございました。次回もよろしくお願いしますね♪
 そしてみなさまのコメントもお待ちしております(^^by事務局(J)

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