『短詩型における「文語」と「口語」~信仰としての二分類~』
講演 月岡 道晴
2014年3月8日@北海道立文学館
俳句集団【itak】第12回イベント抄録 ~その3~
■事例⑦ 擬古文的短歌
こんなにも「文語」と「口語」とで違いがないのに、なぜ〈文語〉ばかりを特別扱いして作りたがる人がいっぱいいるのでしょうか。ここからはその淵源を探ってみたいと思います。私が師事した歌人、成瀬有さんがこんなことを書いています。
「現在、文語短歌など誰にも作れない。文語でなく擬古文的短歌と言うのが正しい」(「新考現代短歌」第16回 『白鳥』平成24年1月)
俳句でもそうでしょう。ではなぜ、だれにも作れないものを、わざわざ擬古文体で詠作し、またそれが推奨されるのでしょうか。もちろん手ほどきをしてくれた先人や近現代の作品に倣って、誰しもが「文語(らしきもの)」を用い始めるわけです。しかし、その先人たちはなぜ「文語」で作歌していたのだろうか。さらにそのまた先人たちは? 永遠に繰り返しになってしまいます。
その頃には「口語」短歌はまだ存在しなかったからという回答は、既に封じられています。一応現在の短歌では、俵万智がその文体の完成者と言われていますが、これだって口語とは言えないことは先ほどから見てきた通りです。要は、なぜその規範に「文語(らしき)」文章体が志向されるのかということに尽きます。
次に江戸時代の文体の例として、式亭三馬『浮世風呂』(文化9年=1812年刊)を引いてきました。銭湯で女性2人がおしゃべりしている場面です。
本居信仰にて、いにしへぶりの物まなびなどすると見えて、物しづかに人がらよき婦人二人。…(中略)…
けり子「鴨子さん。此間は何を御覧じます」
かも子「ハイ、『うつぼ』を読返へさうと存じてをる所へ、活字本を求めましたから、幸ひに異同を訂してをります。さりながら旧冬は何角用事にさへられまして、俊蔭の巻を半過るほどで捨置ました」
けり子「それはよい物がお手に入ましたネ」
かも子「鳧子さん。あなたはやはり源氏でござりますか」
けり子「さやうでござります。加茂翁の新釈で本居大人の玉の小櫛を本にいたして、書入をいたしかけましたが、俗た事にさへられまして筆を採る間がござりませぬ」
かも子「先達てお噂申た『庚子道の記』は御覧じましたか」
けり子「ハイ見ました。中々手際な事でござります。しかし疑しい事は、あの頃にはまだひらけぬ古言などが今の如ひらけて、つかひざまに誤のない所を見ましては、校合者の添削なども少しは有たかと存ぜられますよ」
かも子「何にいたせ、女子であの位な文者は珍らしうござります。先日も外で消息文を見ましたが、いにしへぶりのかきざまは、手に入た物でござります」
けり子「さやうでござります。何ぞ著述があつたでござりませうネ。世に残らぬは惜いことでござります。ホンニ『怜野集』をお返し申すであつた。永々御恩借いたしました。有がたうござります」
まるで時代劇のおしゃべりのようです。これが江戸時代の普通の文体だったのですが、われわれは江戸時代も「文語」の文体は変わらなかったと思いこまされている。
さて、この2人の名はもちろん和歌の助辞「かも」と「けり」に由来するパロディーです。鴨子と鳧子は極端な国学崇拝者として設定されており、『宇津保物語』や『源氏物語』を読むのにも、何と本文校訂から始めるという念の入りようです。
ここで注意したいのは、この2人の関心が「いにしへぶりのかきざま」――つまり擬古文を書く点にあることです。『庚子道の記』というのは、 紀行文の手本です。国学者たちが序文をつけて、書かれてから80年、90年くらい経ってから出版されました。文章語のテキストのような本です。また『怜野集』も和歌を作るお手本となる、いわゆる虎の巻のような本です。お手本に従いながら彼らは文語文を書いていこうとしている。すでに、われわれと同じ事をする人たちが江戸時代にいたということです。2人は極端な国学崇拝者として設定されていますから、知識として体得した「いにしへぶり」を自らの創作に活かすことが要求されました。国学者は語や文に表われている思考形態を通じて物を見、その思考の体系に則って表現することで、初めて古典に対する充分な理解が得られると考えたわけです。例えば彼らはどういうことをするか。ここに『徒然草』と『日本書紀』を持ってきました。ここにはともに「たしなむ」と言う言葉があります。現在では「茶をたしなむ」のように趣味程度に楽しむ意味で使いますが、かつては違いました。
『徒然草』第百五十段=秋本守英・木村雅則編『龍谷大学本 徒然草 本文篇』(平9年、勉誠出版)より引用
「未だ堅固かたほなるより、上手の中に交りて、毀り笑はるゝにも恥ぢず、つれなく過ぎて嗜む人、天性、その骨なけれども、道になづまず、濫りにせずして、年を送れば、堪能の嗜まざるよりは、終に上手の位に至り徳たけ、人に許されて、双なき名を得る事なり」
これは要するに、「劣っている人が上手な人に交じって笑われながらも、苦労して、だんだんうまくなっていく。最初から上手だとうたわれて苦労をしない者よりも、そうした人のほうがずっと高いところまで到達することができる」という努力のすすめの文章。「たしなむ」はここでは努力する、苦労するの意味で使われていることが明確です。
『日本書紀』巻第一神代上第七段一書第三(引用は岩波古典文学大系版(昭四二)に拠る)
時に、霖ふる。素戔嗚尊、青草を結束ひて、笠蓑として、宿を衆神に乞ふ。衆神の曰はく、「汝は是躬の行濁惡しくして、逐ひ謫めらるる者なり。如何ぞ宿を我に乞ふ」といひて、遂に同に距く。是を以て、風雨甚だふきふると雖も、留り休むこと得ずして、辛苦みつつ降りき。
ここは日神の天岩窟籠りを引き起こした素戔嗚尊が天上世界から追放されて、苦労しながら地上におりてきたという場面で、「たしなむ」という語に「辛苦」という字が当てられています。そのように現代とは違う意味に使われる言葉があり、こういうものを学びながら自分の文章に活かしていこうと彼ら国学者たちはしていたわけです。
現代のわれわれがあえて文語を使って作ることに意味があるのかということは、やはり江戸時代の関わり方に学ばなくてはなりません。現代に敢えて〈文語〉で詠作することにどんな意義があるのか。可能かどうかはわからないが、〈文語〉と一括りにされる長い歴史の中で生滅を繰り返してきた表現の背景に存在した過去の思考形態を、一首一首の詠作のかたちで、たとえ断片的でしかないにせよ、この世に甦らせることだと私は考えたい。
今の言葉だけで発想するよりも豊かな部分、かつてあったけれど現代の思考の物差しには入っていない発想のかたち――それが新鮮だから古典から習っていく。だから文語を学ぶのなら、そのことばだけではなく、その背景にある豊かさにこそ目を開いてゆくべきだと言いたいのです。このように言語とその背景にある生活意識が、世代間で受け渡されてゆかなければならないと推奨したのが柳田國男でした。柳田は戦後、民俗学から一時引退し、熱心に教科書を作ります。その中で「言語生活」ということばを盛んに唱えまして、これが国語教育には最も大事なのだとしました(柳田國男「昔の国語教育」=『岩波講座国語教育 国語教育の学的機構』昭和12年、岩波書店、後に柳田『国語の将来』、昭和14年、創元社に収録)。
俳句の歳時記などは、まさにこうした「言語生活」のテキストと言えます。歳時記は俳句でかつて使われてきた言葉とその背景にある生活の索引だということができますが、それに倣いながら、各自が1句1句の詠作に活かしていくことは、非常に意義のあることだと思います。
■事例⑧ 擬古文的短歌
現代でも国学者のように、古えの言葉に倣いながら創作しているという極端な例を引いてきました。
「東野炎立所見而反見為者月西渡」(『萬葉集』巻一・四八歌)。
この歌は現在では、「ひむがしののにかぎろひのたつみえてかへりみすればつきかたぶきぬ」と読まれることの多い歌ですが、斎藤茂吉は『万葉秀歌』上(昭和13年、岩波新書)でこう言っています。
「契沖、真淵等の力で此處まで到達したので、後進の吾等はそれを忘却してはならぬのである」
この漢字列を最初にそう読んだのは、賀茂真淵の『万葉考』です。それまでの古写本ではすべて「あづまののけぶりのたてるところみて」と読んでいました。江戸時代になって、国学者の研究によって初めて「ひむがし」という読み方が発明されたのです。この語は平安時代以後には歌に用いられず、わずか4首を除いて散文専用でした。これが真淵以降に急にたくさん用いられるようになります。
ひむがしにむかへる家はあさあけに明行く空を見つつたのしき (田安宗武)
ひむがしにむかへる家はあさあけに明行く空を見つつたのしき (田安宗武)
田安宗武は暴れん坊将軍吉宗の子で、御三卿田安家の初代になった人です。その次男が寛政の改革で有名な老中松平定信と言ったらイメージがしやすいでしょうか。この宗武は真淵に師事して国学を学びましたから、まず最初に田安宗武がこの語を用います。
また有名な「松坂の一夜」で真淵に弟子入りした本居宣長も、
見るが君ひむがし山の花の春月の秋をもやどのものにて (本居宣長)
見るが君ひむがし山の花の春月の秋をもやどのものにて (本居宣長)
と歌いますし、面白いことに国学者たちと対立した学者や歌人たちも同じように「ひむがし」と詠んでいるのです。
ひんがしの野に出でて見ればにしごりの近き里からけさはかすめる (上田秋成)
朝づく日いでぬさきにとひんがしの市にあきなふはたのひろもの (香川景樹)
近現代の作品も並べました。「ひむがし」の歌は現在も陸続と作られています。
ひんがしに月の出づれば一人の秋の男は帆柱を攀づ (与謝野晶子)
ひんかしに陽炎立ちて楽しみのけふの入日ぞはや明けにける (伊藤左千夫)
ひむがしの天の八重垣しろがねと笹へり輝く渡津見の雲 (茂吉)
みじか夜の有明の月のかすかにてひんがしの空に雲焼くるなり (若山牧水)
ひむがしに真日はかがよひみむなみに真日ぞかがよふ西に真北に (前田夕暮)
ひんがしに山襞白し静まりて夜明けんとする恵那山仰ぐ (宮柊二)
海を見ず過ぎてゆく夏ひんがしの社会政権崩えてゆく夏 (道浦母都子)
例えば終りに引用した道浦さんの歌なんかでは、東側諸国のことまでを「ひんがし」と言っていて、現代歌人は文語だと〝東〟は「ひんがし」と読むものだと思っていることがわかります。それまで流通していた語の「あづま」なんかには見向きもしません。「文語」では「ひむがし」と詠むものだと現代短歌では既に制度化され、これが伝統的な歌語でないことさえ、忘却の彼方へ追いやってしまっています。現在流通する「文語」らしき擬古文の文体が志向される背景には、こうした国学以来の「学習」成果の伝統の、無限に積み重ねてきた蓄積が存在しています。このすべてを「いにしへぶり」と一括りにまとめて仰ぐ際に、初めて〈文語〉なる規範的な文体が出現するとみてよいでしょう。
■事例⑨ 文語・口語に差異はない
以上見てきたように、〈文語/口語〉に明確な差異はありません。にもかかわらず、なぜこんな二分法が流通しているのかを最後にお話します。与謝野晶子『草の夢』(大正11年、日本評論社出版部)にこんな歌があります。
■事例⑨ 文語・口語に差異はない
以上見てきたように、〈文語/口語〉に明確な差異はありません。にもかかわらず、なぜこんな二分法が流通しているのかを最後にお話します。与謝野晶子『草の夢』(大正11年、日本評論社出版部)にこんな歌があります。
劫初よりつくりいとなむ殿堂にわれも黄金の釘一つ打つ
和歌、俳句を〈文語〉で作ることは、どういう意味がある営みだと認識されているのでしょうか。ここでは「劫初」と意識されるほど長大な歴史を通じて用いられてきた総ての文体を――様々な難も矛盾も敢えて無いものとして――統合した存在だと意識され、それを晶子は〈殿堂〉と呼んでいます。ありとあらゆる歌人・俳人とその作がこの文体の中で、一堂に会しているということなのでしょう。それゆえ、この文体によって詠む者は、人麻呂にも貫之にも和泉式部にも西行にも連なることができると信じられています。その長大な歴史のうねりの中に身を委ね、自らもまたそれに連なる者だと位置付けることが、〈文語〉で詠作する者の営為の意味だろうと思われます。
見てきたように、「文語」の作も「口語」の作も、現代日本語による発想を、ある規範的な文章語のスタイルに翻訳して成立しているわけです。自分の心に思った心の中の声を、ある人は文語に置き換える。またある人は口語に置き換える。この作業に本質的な差は存在しない。そういう意味でここまでは「同一」だと説いてきたのですが、晶子の歌に基いて改めて考えてみると、所謂「文語/口語」の相違は、文体それ自体にあるのではなく、〈文語〉として規範的に捉えられる歴史性を自身が引き受けて詠作するのか否かという、作歌態度の側にその本質があると言えます。
それを裏付けるために、『ユリイカ』平23年10月号の特集「現代俳句の新しい波」の中の、川上弘美・千野帽子・堀本裕樹による鼎談「読むところから俳句ははじまる――〈世界〉に惹かれるための技芸」を引いてみます。
川上 旧かなっていうのは、不思議な光をまとっている。...(中略)...実際、十七文字しかない中で、いまの口語よりはるかに強い喚起力が出せる。
千野 なんということのない題材を句にするときにすごい力を発揮しますよ。口語だと逆に、変わったこと言わなきゃいけないと思っちゃう。
川上 だから反対に、池田澄子さんは本当にすごいと思う。あえて口語で新かなであれだけひとを立ち止まらせる句を作っちゃうんだもの。
千野 「よし分った君はつくつく法師である」ってすごい句ですよ。たしかにそうだもの(笑)。...(中略)...
川上 だから、むしろ私は文語で書くほうが文語のオーラを借りていい句ができるかなと思いますね。純粋に口語でやれと言われたら、できないなあ。 (傍線・傍点引用者)
なかなか興味深い鼎談です。傍線部に「オーラ」や「不思議な光をまとっている」と表現されているのが、即ち先ほど私が述べました、〈文語〉として把握される歴史性と同一のものを指していると見ることができます。俳句は短いということもあってか、ここではそうした歴史性は重みの面よりも、むしろ季語と同様の仕組みとして積極的に活用すべきものと捉えられています。
その一方で、「口語で新かなで」句作する側にはそうした面ではハンディがあり、それを補うには個人の発想力、努力による他ないとも知覚されています。ここでは誰がというよりも、小説家も大学教員のエッセイストも、つまり俳人でなくても同じように「文語/口語」の相違について共通の観念をもっていることがたいへん興味深い。
しかし「産声の途方に暮れていたるなり」(『いつしか人に生まれて』)などの秀句がある池田さんを「口語俳句の俳人」と位置づけるには実際無理があるでしょう。掲出句の「つくつく法師である」も、「である」というところは明らかに文章語です。だから正確には「口語的な語の表現力を積極的に句作に利用する俳人」とするのが適当だと思います。池田さんの句作もその意味では「文語」です。
短歌の場合では、「口語」の歌人の作品に特徴的な現象があらわれています。
枡野浩一さんは、「かんたん短歌」を標榜しておりまして、口語でつくれ、文語で作ってはダメといっている人ですが、その作品に
あの夏の数限りない君になら殺されたっていいと思った
(枡野浩一『枡野浩一短歌集 ますの。』)
という歌があります。これは盗作と騒がれたこともあって有名な歌なのですが、元ネタとなっている歌を参照すれば、これは本歌取りの歌とするのが適当な作です。その元ネタとなったのが、
あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ (小野茂樹『羊雲離散』)
という歌です。このように自らを「口語」短歌の歌人と位置付けている人が本歌取りをする場合に特徴的なのは、ほとんどの場合、近代以降の歌人からしか本歌取りをしていないことです。
もちろん「ゴアという街の祭りを知りたけれどここはそらみつ大和の国ぞ」(俵万智『サラダ記念日』)なんていう古典和歌を取り込んだ例はあるのですが、ここでも、「知りたけれど」のように、本歌になじみやすい〈文語〉的な表現を同時に織り込む工夫をしないと、本歌取りができないことは見逃すべきではありません。
〈文語〉の範疇にある歌は、〈文語〉の工夫をしないと口語の中で抱え切れない。全部口語で作る人は文語を抱えきることができないという観念がその背景に看て取られる。その観念の域内にあって「口語」の詠作を選択する営為は、即ち近代より前の作品とは基本的に切れた位置に自作を定める姿勢だととらえられます。〈文語/口語〉の問題は、ここでまさに信条そのものだと言えるでしょう。
それでは以上を簡単にまとめて締めくくりにしたいと思います。現代の短詩形文学では、同じ音数律の定型を明確に差異の見出し難い方法で運用しながらも、それを口語、文語となぜか呼び分けている。それは「信仰」としか呼びようがない非本質的な区別であり、現代の短詩形文学の詠作信条には、このように文語、口語の二種類の信仰のもちかたが存在しているということを本日はお話ししました。
=終わり=
つきおか・みちはる
長野県出身。國學院大學北海道短期大学部准教授・歌人。
上代文学会、萬葉学会、美夫君志会、古代文学会、日本文学協会の各学会に所属。
また、歌人としてさまざまな雑誌・新聞等に寄稿(『歌壇』『短歌現代』『短歌新聞』など)。
著書(共著)に『古事記がわかる事典』、『万葉集神事語辞典』、『太陽の舟 新世紀青春歌人アンソロジー』。
朝日カルチャーセンター札幌教室「人麻呂恋歌拾い読み」を開講中。
※次回のitakは5月10日(土)午後1時から、道立文学館で開催。第一部は『読(詠)まずに死ねるか!~短詩型文芸の可能性~』と題して、当会幹事・五十嵐秀彦&山田航による【itak】旗揚2周年記念トークショーを予定しています。詳しくは追ってホームページなどで告知いたします。
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