『 秀彦が読む 』 (その1)
~第10回の句会から~
五 十 嵐 秀 彦
これまで10回のイベントを続けてきて、初めて欠席せざるをえないこととなった。
皆さんには迷惑をおかけしたかもしれないが、幹事たちはこの原稿を書かせることでしっかりと私に埋め合わせを迫ってきたのである。
やはり俳句の鑑賞というのは句会現場での直感的なものもあるが、こうして文章で鑑賞を綴るのは、より句の世界を楽しめるようにも思う。
いつもと違った感じがして、大変新鮮な思いで全句を読んだ。
それも面白かったのだが、その中から10句選んでみた。
私の俳句鑑賞はいつもそうだが、自分が勝手に作者になった気分で句の中に入っていくようにしている。だから、事実とかけ離れた鑑賞をしてしまっているかもしれないが、まあ、鑑賞とはそういうものであろう。
団栗を拾ふ賢治の夢に逢ふ
作者は賢治に会うのだと言う。そう言われてみれば、団栗を拾うという行為は誰かの面影を呼び覚ます儀式のようにも思える。
深く礼拝するように身をかがめ団栗を拾う。それを握り締める。冷たい。しかしどこか温かい。この感触は魂のそれのようだ。
団栗を拾いながら、すでにない人の心のあり処を探している。作者にとって賢治の存在はそれほどまでに近いのだろうと思った。
三島忌やノイズにまみれたるラジオ
ネット普及のおかげで思いがけずラジオが復権しつつある。携帯やスマホがあればどこでもキレイな音でラジオが聴けるようになった。もちろんネットラジオにノイズはない。
私がラジオにかじりついていた時代、ノイズはつきものだった。
そのたびに向きを変えたり、ひっぱたいたりして聴くものだった。
三島由紀夫の自裁の日。私はラジオを聴いていただろうか。
そのとき私は中学三年生だった。テレビよりはるかにラジオを聴いていた頃だから、この句になんの抵抗もなく共感できる。
「ノイズにまみれ」という表現にインパクトを感じる。
葉が落ちるそっと過ぎ去る風がある
「る」の重なりが時間の流れを表現しているようだ。ここには三つのアクションが描かれている。作者はまず風の気配を感じた。そして顔を上げるとそこに落葉が舞っていた。たった一片の落葉であったかもしれない。
ああ・・・。
落葉の軌跡に眼を奪われたとき、風は作者の背後に吹き抜けていったのだ。
人の五感は自然の営みに直結している。散る落ち葉にも、吹き抜ける風にも、五感を通して人は通じている。人の心の襞に通じているのだ。
そして、とどまるもののひとつだに無いことを知らされるのである。
(つづく)
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