俳句集団【itak】第9回イベント
「石狩の句会・尚古社の歴史~伝説の俳人・井上伝蔵~」
2013年9月14日@道立文学館
2013年9月14日@道立文学館
俳句集団【itak】は9月14日、9回目のイベントを札幌の道立文学館(中央区中島公園)で開きました。今回は、高校生による研究発表会。札幌琴似工業高校文芸部の1、2年生が、文芸部の歴史や活動内容と、秩父事件の主導者で俳人の井上伝蔵(※)や石狩にあった俳句会「尚古社」についての講演を行いました。文芸部については詫間さん、川代さん、宮川さんの女子部員3人、尚古社については川中君、遠藤君、風間君の男子部員3人が担当しました。発表会の詳報を紹介します。
(※井上伝蔵 1884年(明治17年)の農民蜂起「秩父事件」を主導。北海道に逃亡し、石狩尚古社にも参加。最後は野付牛村=現北見市=で死去)
【札琴工文芸部の歴史と活動】
今回は、主体となっていた3年生が就職試験で来られないため、不慣れな私たち1、2年生が説明しますが、大目にみてもらいたいと思います。
「文芸部」が一体どんな活動を行っているのか、ほとんどの方がご存じないと思います。この場を借りて、説明しようと思います。
●文芸部の沿革と活動
まず部の沿革からです。私たちの学校は1963年(昭和38年)に創立されました。文芸部は、創立3年目の1965年(昭和40年)から1972年(昭和47年)までの8年間活動していました。
生徒会誌や、卒業アルバムを見ますと、毎年15名前後の部員が男女半々で写真に写っており、「俳句」は生徒部員と教職員とで毎月行っており、活発に作句活動していたようです。生徒会誌『琴友』にも、俳句作品がきちんと所収されています。
その後、1972年から2006年まで、34年間の長きにわたり、部の活動は休止していました。2006年、転勤してきた教員が同志を募ったところ、10名を集め、同好会を新規結成。翌年には15名を集め、部に昇格が認められ、活動を34年ぶりに再開しました。
次に活動内容です。
文芸部は、「俳句」・「川柳」・「短歌」・「詩」・「エッセイ」・「小説」の6ジャンルに取り組んでいます。共同作品なども同時並行で行っています。例に挙げると、詩人研究、俳人研究、アイヌ語を入れて短歌俳句づくり、小説の共同執筆作品づくりをしています。今回の(文芸誌)23号にも共同作品があります。
学校祭展示では、一教室をお借りして、細長い用紙の京都の和紙の短冊に「短歌」「俳句」「川柳」を、正方形の色紙に「詩」を展示しています。小説は、分量があるため、冒頭だけを拡大しています。平成25年7月の学校祭では、本校文芸部が発行してきた歴代の文芸部誌を23種類展示しました。
大会などで交流している全国100校以上の他校の文芸部誌の主なものを展示しています。その他、歴代の先輩方が受賞した表彰状も展示しています。2~3人ペアを作って学校祭のために編集した「文芸部誌・学校祭号」を、毎年4種類ぐらい展示しています。来校された市民にも丁寧に説明しています。
6月は松山市主催の「俳句甲子園」道予選に出場しました。8月には高文連主催「石狩支部大会」、10月は「全道大会」、「北海道・東北文芸大会」。12月は「全国コンクール入賞者表彰式」、3月は徳島県三好市主催の「文芸誌甲子園」など、年間7種類もの大きな大会に参加して技量を磨いています。
また、野外に出て、俳句や短歌の「吟行」も実施しています。5月の新入生歓迎会や、6月には石狩市にある俳句結社「尚古社」への取材を兼ねた共同研究。尚古社はこの後、男子陣が説明します。9月~10月に平取町へ無料バスで出かけ、アイヌの聖地を訪ねての吟行を実施しています。10月の全道大会、同月の北海道東北文芸大会、12月の全国コンクール入賞式(東京)にかこつけて、野外で風景を体感しながら、創作活動も行いました。
また、句会は毎月1回校内外で実施しています。俳句や短歌を披露、批評し合う「句会」「歌会」では、「手作りのお菓子を持参して交流会」にもして、創作と味の両方を楽しんでいます。
●文芸誌「風花舞」
部として、文芸部誌を年間4回発行しています。12月末号、4月号(新入生歓迎号)、6~7月に「学校祭号」を作り、作品の内容を部員全員で合評します。審査を受ける8月発行の「大会号」は近年、部員15名前後で、200ページから300ページのボリュームで完成させています。
2008年(平成20年)12月の大会で、詩部門でいきなりの全国優秀賞(第2席)を皮切りに、平成21年には、詩部門で全国優良賞(第3席)、平成22年には、詩部門で全国入選(第4席)、そして平成23年には、俳句部門で全国入選(第4席)と、応募総数3万点余りの中から、上位16作品に4年連続して入賞しました。普通科高校が圧倒的に多い高校文芸界の中で、工業高校から入賞を重ねるということで、大変珍しがられており、報道機関からの取材依頼も多くあります。
毎年作っている文芸誌についてです。
文芸部部員が1年がかりで作った作品集である「文芸部誌」が、連続して全国入賞しています。高校生文芸の最高峰・最多応募の「全国高等学校文芸コンクール」では、平成22年、23年、24年と3年連続で入賞しました。
さらに、平成24年度は、過去26年間の歴史の中で、北海道からも初の、何と「最優秀賞&文部科学大臣賞」(第1席)に次ぐ、優秀賞(全国第2席相当)を『風花舞』第20号が受賞してしまいました。
その他、平成22年に新設された徳島県三好市主催の「富士正晴全国高等学校文芸誌賞」で、第1回は優秀賞(全国2席)、第3回は奨励賞(全国4席)に入賞しました。
山口県下関市の梅光学院大学主催「第10回全国高等学校文芸誌コンクール」でも、佳作(全国3席)に第14号が入賞するなど、賞を総なめして、琴工高旋風を「高校文芸界」で吹き荒らしてしまいました。
次に手作りの文芸誌作りの方法について、10項目に分けて紹介します。
①テーマ・内容を話し合って全体像を決めます。今年の23号のテーマは「銀河」でした。②特集や企画を決めます③効果的にジャンルやページの順番を決める④個人・共同作品作り⑤挿絵・共同ページの分担作業⑥原版印刷⑦校正に入ります⑧挿絵を挿入します⑨大会号では、1週間に及び自前で複数枚印刷。⑩業者に製本だけを依頼する―という流れです。
完成品を大会の全道大会、全国大会、「文芸誌甲子園」で、審査員に審査していただきます。今年の23号は300ページとなりました。
(全国での)総数は、個人作品が毎年2万5000点~3万5000点、参加している学校の文芸部数は、全国から400校~440校余り。運動系に比べると小規模の状況です。野球、サッカー部の10分の1だそうです。毎年12月第3土曜日に、東京のオリンピック記念施設で、表彰式や審査講評会が行われています。
最後に、約50年前、1960年代に、本校では文芸部員が「俳句」創作を大いに楽しんでいたようです。そして、今、2010年代、「詩」「短歌」「俳句」に現在の部員達もまた、心底から楽しんでいるのを見て、不思議な縁を感じております。これで活動報告を終わります。
【尚古社の研究発表】
男子部員が尚古社研究について発表したいと思います。
川中が文芸誌第17号の「井上伝蔵の俳句研究」、遠藤が第20号の「尚古社の俳句研究」、風間が第23号の「子規に消された俳人たち」について説明します。
●伝蔵の俳句研究
川中が井上伝蔵の俳句研究について発表します。
まずは石狩尚古社についてです。結成は1856年(安政3年)。石狩場所の請負人や役人たちが、仕事の合間に俳句を詠み、苫小牧や函館の俳人たちと交流。1902年には「尚古集」が発行されました。物故会員12人の霊をまつり、能量寺で法要した記念事業として編集されたもので、全国から3538句が選ばれ、連句と共に掲載されています。応募者は道内を始め、沖縄からも寄せられたことから、道央俳壇の拠点だったことが分かります。
大正末期になると、尚古社を支えていた会員が亡くなり、活動も徐々に下火となりました。そのうちに自然消滅してしまったそうです。
井上伝蔵について説明したいと思います。彼が生まれたのは1854年(安政元年)、秩父郡下吉田村の資産家の家に育ちました。秩父事件の直前、31歳で自由党に入党。暴動後、近くの土蔵に身を隠していましたが、明治21年ごろ、津軽海峡を渡って石狩の市街地に、伊藤房次郎の偽名で移り住んだそうです。その後明治25年に高浜ミキという女性と結婚し、同39年、40年には八幡神社の祭典委員も引き受けていました。秩父の土蔵で潜伏中に法律や会計学を勉強したこともあり、法律や数字には明るく、文筆もたつことから、町民の間で頼りになる人と信頼されていたそうです。
伝蔵は石狩が最後の住所と思われていましたが、明治44年に石狩を去り、札幌へ移り住みました。この理由は分かっていないようです。伝蔵は大正7年(1918年)6月23日、64歳でその生涯に幕を閉じます。死を意識したときに初めて妻子に、自分の本当の身分を明かし、釧路新聞社の記者にも秩父事件の井上は自分であることを告げています。
そんな井上伝蔵の俳句を2年前、尚古社を訪問した(文芸部のOBで卒業した)大島先輩、現在3年生の新川先輩が、尚古社にあった俳句を研究したものを四つほど、紹介したいと思います。
伝蔵が49歳、1902年(明治35年)の作品です。
暮て散る花には風も一層よし 柳蛙(りゅうあ)
柳蛙という俳号で作られています。暮れてから散るのではあれば、いっそ、風が吹きさらってしまうのもよいではないかという句意です。咲き満ちてはらりはらりと散る花の風情よりも、風に吹き散る花の景観を好んだではないかと書かれています(出典・「井上伝蔵 秩父事件と俳句」中嶋幸三著)。
この句について新川先輩は、「花びらが降ってくるのではなく、吹き散る花びらが自分の好み。また、その場を想像したときのさわやかさ」を評価して選んでいます。
これをから新川先輩の作った俳句です。
風吹いて散る花々は涼しげに 新川
1893年(明治26年)、伝蔵40歳のときの作品です。
名月や軒に光りし蜘蛛の糸 柳蛙
ひとたび闇にまぎれた蜘蛛の糸が、月の出とともに新たな光を取り戻した情景を詠んだもの。蜘蛛の網ではなく、糸であることにも注目したい。一筋流れるように漂う光を見ている。当時はこうした句が評価をされていたことを念頭に置いて読むと、伝蔵の繊細な感性を認めざるを得ない―と中嶋さんは書いています。
大島先輩が、この句を研究に選んだ理由を「月光や、それに照らされ輝いている蜘蛛の糸が想像できる分かりやすい句だったため」と言っています。
この句をもとに大島先輩が作った句は・・・
葉の陰の水面にあり蜘蛛の糸 大島
次は、作られた年代は不詳の作品です。
日の恵みはるは氷も砕けとぶ 柳蛙
石狩川に張った氷が春の到来とともに雪解川の水勢によって砕け飛ぶさまを書いたものだろうか。新川先輩が選んだ理由として「砕けとぶに力強さを感じた。また、日の恵みで春の命の暖かさも感じる」としています。 新川先輩がこの句から作った句は・・・
春の日と命の躍動感じ入る 新川
最後の句は、1903年(明治35年)、伝蔵が49歳の時の作品です。
俤(おもかげ)の眼にちらつくやたま祭 柳蛙
伝蔵の俳句の中で特に有名な句です。この年の8月19日、尚古社は亡くなった社員12名の追悼会を石狩能量寺において盛大に行ったそうです。この句は亡くなった12名の社員のことだけではなく、恐らく、困民党の無数の群像に重ねていったに違いないという推測もあるそうです。
大島先輩がこの句を選んだ理由は「秩父事件後に北海道に行き着いた伝蔵が、共に戦った仲間たちに祈りを捧げるとともに、決して伝蔵の中で事件が過去のものにはなっていないことを感じた句だったため」としています。
大島先輩がこの句をもとに作った俳句は・・・
戒めの過去を仰げばたま祭り 大島
以上で私からの伝蔵の紹介を終わります。
●尚古社の研究
遠藤は、文芸誌第20号の尚古社の俳句研究を発表したいと思います。石狩尚古社の建物は、住宅地にぽつんとあり、ここに有名な俳人たちの有名な作品が残っていたとは思わないところでした。尚古社に収められた数多の資料を調べました。そこには有名な俳人たちの貴重な資料が眠っていました。われわれは尚古社に眠る俳句を追いました。
尚古社に俳句が残っていた俳人の出生地を調べたところ、全国から俳句が集まってきていました。何と沖縄からも俳句が来ていました。尚古社、北海道の俳句の活動の大きさが分かりました。武蔵野、埼玉出身の井上伝蔵さんも、尚古社に入っています。残りの俳人たちにも良い俳句を書くひとがいます。興味がある人はぜひ見に行ってみてください。
去年の部員、男子チームが尚古社に残っている俳句を調べたものです。この中から二つだけピックアップして説明したいと思います。
きょうは来ていませんが、3年生の新川先輩が取り上げた俳人の俳句です。
早乙女のあとつけて来る家鴨かな 鳴雪
鳴雪という人が書いた作品です。知っている人もいるのではないでしょうか。新川先輩の感想は「早乙女は田を植える女性のこと。鴨は親の後ろについて行くものだが、早乙女にゆっくりついて行く姿がほのぼのとして楽しい」とあります。その通りです。家の鴨と書いて「あひる」と言います。僕はこっちのほうがびっくりしました。
鳴雪の生涯について説明したいと思います。本名を内藤素行。南糖、老梅居などの俳号もあります。伊予松山藩士、内藤同人の長男として弘化4年(1847年)4月15日、江戸三田の藩邸生まれ。俳句は旧藩主久松家の嘱託で、同郷の書生の寄宿舎常盤会の監督となった46歳の時に、舎生の正岡子規に学んだことに始まり、1年も経たずに一家の風格を示しました。句は温雅な調子を愛し、もっぱら初心者の指導をもって任じ、また好んで飄逸(ひょういつ)な人物画も描きました(出典・蒲田池菱と尚古社―中島家資料にみる石狩俳壇と各地の俳人 中島勝久著)。こんなところで正岡子規の名前が出るとは思いませんでした。
これをもとに新川先輩が作成した俳句は・・・
打ち水の音澄ましけり水琴窟 新川
水琴窟は、尚古社の近くにある公園にもあります。石が積まれていて、水を垂らすと下に水が落ちて、鉄琴みたいなものが置いてあり、きれいな音が出るものです。裕福な家庭にしかなく、とても珍しいものとのことです。尚古社に行く際はぜひ見てきてください。
次の研究は、大島先輩が取り上げた俳人です。
蝉なくや雨ふくむ雲の暮れ急ぐ 牛島勝六
大島先輩の感想は「もう終わりそうだという夏を、やさしく表現した句だと感じました。この句の、『暮れ急ぐ』という言葉が、季節の終わりを表しているなら、『蝉なくや』は夏の終わりを重くなく表現するのに最適なものに感じました」とあります。
牛島さんの生涯です。
1872年~1952年。本名は虎之助、出生地 は福岡県久留米市。北海道には屯田兵として20歳の時に入植しました。明治末期から、新聞俳壇選者として頭角をあらわし、独自な風土的郷土俳句の形成の道を目指しました。また、大正10年には、俳誌「時雨」を創刊しました。
これをもとに大島先輩が作句した俳句は
蝉なくや窓に入りたる風もなし 大島
昨年男子チームが取り上げた尚古社の感想をまとめたものもありますが、大島先輩の感想が興味深いので紹介したいと思います。「尚古社に保管されている資料が非常に膨大で、本にしてしまえば何百冊にもなる量です。実際に目にしたら、それは宝の山のように見えることだろうと思います。また、食器や着物、当時の雑誌も数多く公開されていて、本当に宝物庫のようです。実は正岡子規に潰された俳人がいたという話も聞くことができました。みなさんも石狩に来る機会があったら是非、尚古社に足を運んでみてください」。
実際に僕も2度、行ったことがありますが、住宅地に建てられていて、その中に有名な俳人、俳句が置いてあって、まさかこんなところにと思いました。石狩浜や公園もあり、観光にもなります。とても勉強になると思いますので、尚古社に行ってみてもらいたいです。一生勉強ですから。
●子規に消された俳人
風間が紹介するのは、「正岡子規に消された俳人たち」という研究についてです。
昨年、2年生の(文芸部)男子陣で尚古社を訪ねました。目的は、子規に消された俳人の取材です。尚古社の社主である中島さんの紹介で、計4人分の俳句が出てきました。尚古社の訪問と同時期に顧問の佐藤先生が一冊の本を手に入れてくれました。その本の名は「子規は何を葬ったのか―空白の俳句百年―」(新潮選書、今泉恂之介)と言う本です。その本にはなぜ子規によって俳人やその俳句が消されることになったか、消えた俳句にはどのようなものがあったのかなど、私たちが求める情報が凝縮されていました。俳句史の中にブラックホールとも呼ぶべき未知の空間が潜んでいました。百年もの間の俳句情報が、まったくと言っていいほど我々に届いていませんでした。そもそもなぜ、多くの俳句や俳人が子規に消されることになってしまったのか、発表していきたいと思います。
俳句史の空白についてです。江戸後期の天保時代(1830年)から明治25年(1892年)ごろまで、子規の改革に至るまでの俳句は「堕落し、救いようのない状態にあった」と多くの書物が書いてあります。権威ある文学書のたぐいが口をそろえてそのように書いていたのです。いくつかの文を読むうちに分かってきたことがあって、多くの書が「堕落」の決め手として引用する同じ文がありました。子規の「俳句大要」にある一節です。
「天保以後の句は概ね、卑俗陳腐にして見るに堪へず。称して月並調という」
天保時代から明治中期の俳句を語る多くの文が、この僅か30字あまりの文を水戸黄門の印籠のごとく掲げ、批判論の裏付けとしていたのです。俳句史の筆者たちは果たして、これに続く文を読んでいたのでしょうか。子規の文は以下のように続いています。
「然れども此種の句も多少は之を見るを要す」
子規は、俳諧の達人とみなされるような人も、時には月並調の句を誉めたり、自分で作ったりすることがあると述べています。その理由は、月並調というものをよく知らないからだ、と知ったかぶりする危険性を説いた上で
「恥を掻かざらんと欲する者は月並調は少しは見る可し」
と、その項を結んでいます。
例の期間の俳句がほとんど残っていないのは、単に注目されなかっただけではなく、子規の俳句収集に限界があったことにも起因しています。なぜなら、高浜虛子らが編集した最初の歳時記でもある「俳諧歳時記」などは、俳句の情報を子規の著作から得ていたためです。子規にかかわることが積み重なって、俳句史に大きな穴を開けてしまったということです。
ちなみに、子規の言う月並調とはなにか、この本から引用すると、
①感情に訴えずに知識を訴えようとするもの②陳腐を好み、新奇を嫌うもの③言語の懈弛(かいし)を好み、緊密さを嫌う傾向④使い慣れた狭い範囲の用語になずむもの⑤(俳句界の)系統や流派に光栄ありと自信するもの―です。
次に、子規が批判した俳人、上田聴秋についてです。
秋寒やあるだけ着たる旅衣
尚古社にあった俳句としては
花のみか紅葉にもこのダンゴ哉
上田聴秋の生涯について紹介します。通称、上田肇。不識庵と号しました。美濃大垣、今の岐阜県の人で、京都に居住しました。青年のころ、慶應義塾大学南校などに学んだこともありますが、卒業にいたらず、俳諧を芹舎に学び、明治17年京都に梅黄社をつくり、雑誌も発刊しました。33年11月に二条家から花の本の号を許され、その十一世と称しました。著書に「月ケ瀬紀行」「聴秋百吟」「鶴鳴帖」その他のものがあります。昭和7年(1932年)1月17日没。享年82歳でした(俳諧人名辞典より引用)。
正岡子規の批評は不詳です。
この句をもとに新川先輩が創作した句は・・・
団子食う音や桜の花迎え
秋寒や手鼻を隠す通学路
2人目は穂積永機という人です。そのひとの俳句は
白露や夕やみつくるものはなし
尚古社にも同じ俳句がありました。
穂積永機氏の生涯を紹介します。
通称善之。文政6年10月10日、江戸下谷御徒町に、六世其角堂鼠肝の長男に嗣承したが、明治20年に其角堂の号を門人機一に譲って、後は、老鼠堂と号した。嘉永・安政から明治にわたる江戸座系の老俳で、各地を行脚して五十余国に足跡をのこし、門人一千余人と称した。学識もあり謙抑な性格で、人望を得たといいます。機一から贈られた300金で、芭蕉200回忌法要を義仲寺で七昼夜営、「元禄明治枯尾花」を刊行しました。明治37年1月10日亡くなりました。享年82歳でした。
次に正岡子規の穂積永機に対する批判を紹介します。
子規は「老鼠と言ひ永機と言ふ人、幾人もありとばかり覚えて、能く其の人を区別できず。故に此句の作者は如何なる価値のある人なのか、はた如何なる俳句を詠みしか知らず(中略)若し此種の句のみならんには到底二流以下の俳家たるに過ぎず」と評しています。この時子規は30歳。73歳の大宗匠を、新聞紙上で二流以下の俳家たるに過ぎずと決めつけました。
部員の川中君がこの句をもとに作った句は
白萩や絶え間なく露零したる
白露の中に宿りし客舎かな
このように俳句史の空白の調査は難航しました。子規の批評を研究するはずが、まったくと言っていいほど、あまり情報がなかったので、もし資料があれば、調べてみたいと思いました。(了)
☆抄録:久才秀樹(きゅうさい・ひでき) 北舟句会
※次回のitakは11月9日(土)午後1時から、道立文学館で開催。第1部は札幌在住の詩人・矢口以文さん(やぐち・よりふみ 詩集『詩ではないかもしれないが、どうしても言っておきたいこと』の著者)の自作詩朗読を予定しております。詳しくは追ってホームページなどで告知いたします。
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