2013年9月27日金曜日

俳句集団【itak】第9回句会評(橋本喜夫)



俳句集団【itak】第9回句会評

 
 

2013年9月14日

 



橋本喜夫(雪華、銀化)
 
 
悪天候の中第9回も行われた。第一部は琴似工業高校文芸部による研究発表、同校文芸部の今までの歴史、部活動報告と、伝説の俳人・井上伝蔵の俳句とその生涯に関する研究発表もなされ大変興味深かった。また男子学生と女子学生の微妙な力関係の違いがわかり微笑ましかった。このような若者たちを何とか、ほそぼそでもいいから、一生文芸に携われるような世の中にしないとだめだと、珍しく思った。どうすればいいかはわからない。自分は少なくてもできなかったが。お金ですむなら協力したい。
 さていつものように句会評にうつるが、いつもながらに高点句、人気句が残念ながら作者の公表許可が得られていないことを強調しておこう。そしていつもながらに勝手な読み、勝手な俳句観を押し付けることになるかもしれないが、寛恕願いたい。
 
 五体ほど玄関で待つ案山子かな    福井たんぽぽ
 
シュールである。たとえば、これから田んぼに案山子をしつらえる前の農家の玄関、五体も必要であるから、比較的てびろく農業をやっている農家であろう。その玄関にこともあろうに五体というか五人というか、案山子が横たわっている。まるで出番を待つように。五という数字がまるで鶏頭の十四五本のように動くようで動かない。二体だとよりリアルだが面白くない。
 
 肩書きのとれて百態薯を食ふ   高野次郎
 
肩書きがとれて軽くなった、元名士の俳句はよくあるのであるが、中七での百態という説明。というか抑えが効いている。そして百態あるなかで、決して恰好が良くないのだが、リアルな薯を食ふ という展開の妙がある。理解しやすい句であるし、もと肩書きのあったひとたちが採ったのも少し面白い。
 
 小川より下駄ぶら下げ来終戦日  戸田幸四郎
 
戦時中、終戦時まだ腕白ざかりだった人の句であろうか。当時は池や小川が子供の格好の遊び場であり、特に暑い8月はそうであった。それこそびしょ濡れになるまで、遊んだものだ。その折、濡れた下駄を下げて帰ったら玉音放送が流れ、大人たちは泣いているといった景。まさにリアルな場面が想定される。終戦忌という恨みがかった季語ではなく終戦日というさらりとした季語の選択もよい。
 
 ヌードルのにんにくバター白鶺鴒   斉藤昌子
 
中七までのヌードルのにんにくバターまでですっかり気に入って印をつけた句である。なぜ最後に落としたか。まさに白鶺鴒のイメージがわかりずらかったことと、近いようで飛ばして、季語を選択したのだろうが、座六にするまでの適切な季語だろうか と迷ったあげく、最後は採れなかった。にんにくバターの白いイメージからきたのか、取り合わせとしてもこの組み合わせが最高であるかは判断が難しい。
季語以外ですでに選択力のある措辞がある場合、結構むずかしいところだ。こういうときは邪魔にならない植物の季語を私だったら選択する。
 
 そして秋小鳥のように菜をつまむ  新出朝子
 
小鳥のやうに菜をつまむの措辞がすばらしい。出来上がってる。したがってこういう場合は邪魔しない、強すぎない季語がよい。そして秋という措辞はそういう意味で最高の選択だと思う。夏から秋にかけて、涼しくなってきたがまだまだ食欲は出てこない。そんな折に、小鳥のようにつましく菜を食んでいる作者あるいは句の主人公が好ましく感じられる。
 
 コスモスのまえでうしろで薬飲む    長野君代             
 
17文字すべて簡単な措辞で意味が通っている。しかしながら、何の主張も、何のひねりもない、なんの哲学も、なんの社会批判もない。しかし読者は微苦笑と、頭の上に???マークが3つ位ならぶ。こういう、アナーキーというか、無意味な俳句を最近、櫂未知子は「おばか俳句」と名付け、賞揚している。わたしもこういう句が好きである。考えてみてください、前とうしろではなく、前で 後ろで あるからこの句の主人公は コスモスの前でたとえばデパスをのみ、わざわざうしろにまわってセデスを飲んだわけである。
 
 粘性の残暑が喉に詰まりゆく     三品吏紀
 
残暑のいやらしさ、息苦しさを、粘性という言葉で表現した手柄であろうか。もちろん作者はメタファーとして粘性の残暑としたかったのであろうが、詰まりゆくという言葉が時間的悠長をつくりだしている感がある。粘性が喉(のみど)に詰まる残暑かな でもいいと思うのだが。。。好みでしょうな。
 
 赤とんぼ隣にすわっていいですか   小路裕子
 
12字で完結したいわゆる口語調の措辞に季語を付け合わせるやりかた。とても人気が出るか、下手すると失敗するつくりではある。読み手も気をつけなければならない。ともすると12字の措辞が胸にすとんとはいってくるので、季語の選択や、全体の構成に対する評価が甘くなりがちである。揚句を見てみよう。隣にすわっていいですか。秋の夕暮さみしくしている誰彼の胸に沁みる措辞ではある。そこで、秋の夕暮としてはベタな赤とんぼ、つき過ぎといえばつき過ぎ、嵌っているといえば嵌っている。秋の暮れにベンチに作者は座っている、隣に座るかのように赤とんぼが羽を休めている。そんな景を思い出せばやはり佳句と判断してよかろう。
 
 吹きガラスぽろんと秋の音したり   室谷安早子
 
吹きガラス;私はよくわからないが、おそらく小樽あたりのガラス工房でみるあの汗かきながら高温のガラスを吹いていろんなガラス製品をつくる工法のことであろう。吹きガラスが何かの拍子にポろんと音を立てて壊れてしまったのかもしれない。秋の日のビオロンではないが、やはり音のするもの、透明感のあるものは秋が一番であろう。ぽろん も嘘くさくない、決して凝ってないオノマトペであるが、適切だと思う。
 
 団栗に背比べする気力なし     栗山麻衣
 
団栗のかわいい感じ、団栗があまた地面に落ちている景。団栗子供背比べは予定調和的ではあるが、気力なしがなんとも子供ではなく、世俗にまみれた大人を感じさせる色合い。この作者ならではの俳諧。ただこの作者すこしポジテブな俳諧やあるいはイロニーが持ち味だが、少し元気がないのかもしれない。
 
 天高く身ぶり大きく呼ばれけり   鈴木牛後
 
一読気持ち良い景がひろがる、達者なつくりだ。身ぶり大きくという普通なら説明的なフレーズが、天高くという措辞と、呼ばれけりというあっさりした切れ字によって、詩に昇華している。俳句の骨法と、恩寵を十二分に理解したつくりである。秋空の下遠くで知り合い、もしくは恋人かもしれない、大きな手振り身ぶりで呼んでいる。そのあと、自分がその元へやはり大きな身振りで駆けてゆく景が浮かび、時空として大きな景が詠めていると思う。
 
 パパママは西と東の星月夜   高畠葉子
 
星月夜の静謐さと、パパママは西と東へ分かれているという事実関係。静謐ではあるが、家庭は火宅状態であるというアンビバレンスも面白い。星空の下、西にパパが居て、東にママがいる、真ん中に作者である「ぼく」がいるとする。そうすると、ぼくにとっては何となく切ない句でもある。
 
 虫の音の途切れて闇の重たかり    小笠原かほる
 
まさに虫の闇の本意を詠んだ句。ありふれているといえばありふれているかもしれない。この句のみどころは、虫しぐれの中、一瞬訪れた静謐を、闇が重たいと感じた感覚であろうか。虫しぐれの闇が重たいのではなく、虫しぐれに訪れた一瞬の静寂が重たいのである。この一点でこの句は詩になっている。
 
 野分あとポテトチップが反りあえる   新出朝子
 
ポテトチップというあまり俳句にしずらい素材を取りあげ、塩にまみれて、同じ方向に反りかえっている日常の些事を取りあげて、それに野分あとという季語を付け合わせた。野分後の万物が風にひっくり返ったような景をポテトチップが散乱している景をみたとき想像したのであろうか。いずれにしても遠くて近いアナロジーが両者にはあるように感じる。
 
 真夜中のはららご深くしづもりぬ     久才透子
 
沢山の生命の抜け殻あるいは生命のかたまりでもあるはららご。生死に結び付けず、真夜中の静寂と結びつけたところに新しさがあると思う。真夜中のはららごでスリットを入れて読むと、深くしずもりを呈しているのは作者自体なのかもしれない。
はららごという言葉から連想する女性固有の身籠り感もあるのかもしれない。まだいくらになっておらず、鮭の腹の中に眠っている冷凍保管されている景であれば、それはそれで面白い。
 
 とろろ汁お茶目のままに老境に   平 倫子
 
お茶目であるから、女性であろう。今はすでに老境ではあるが、考えてみれば子供のころと同じでお茶目なままの性格である。そんな女性が、とろろ汁をすすっている景。とろろ汁は諧謔につながりやすい季語なので、そういう意味では中七以下の説明的措辞がかえってとろろ汁をひきたてた作り方になっている。おそらく作者自身の自画像なのかもしれない。
 
 恋しくて白妙の蛾や星月夜     佐々木成緒子
 
中七までは短歌的抒情をたたえた、もしくは短歌的な措辞にも思える。一転、蛾という気味悪いものを持ってきて詠嘆の「や」で中七で切ったつくりだ。静謐な星月夜にうっすらと、真っ白な蛾が闇に浮かぶといった景である。惜しむらくは星月夜と蛾が喧嘩している感じは否めない。私は声高に季重なりをうるさく気にする考えはもっていないが、この句の場合は「蛾や」で完全に切って強調しているのだから、蛾を季語として使用すべきであろう。座五は季語ではない状況説明の措辞でよいのでは。たとえば 「まくらがり」とか「大伽藍」とかあるいは「歌舞伎町」などの地名でもよい。やはり蛾に焦点を集中させるべきと思う。
 
 稲屑火や農夫これより蔵びとに     青山酔鳴
 
絶滅危惧季語である「いなしび」という農事季語。稲屑火(いなしび)という季語に触れるだけで、この句を味わうことになるのではないか。私のように北海道の漁村に生まれ育ったものには、一番遠くにあった季語だと思う。手元の歳時記では唯一「角川季寄せ」に、籾の傍題として載っている。他の歳時記にも「籾殻焼く」はあっても、稲屑火は載っていないと思われる。稲束から籾だけを分け取る作業を「稲扱き」といい、籾を筵などに干したあと、臼に入れて擦って玄米にする作業を「籾摺り」という。まずはここまでの農作業を理解した上で「日本大歳時記」をめくってみると「昔はこの作業は大変な労働で、人手もたくさん必要であった。その長くつらい単調な作業の中で鄙びた籾摺唄が生まれた。(宇佐美魚目)」とある。籾殻を焼いて灰をとったり、もみ殻かまどの燃料にしたりするとも書いてある。その時に立ち上る煙、火を稲屑火というのであろう。灰を来年のための農作業のためにもちいるのではなかったか?いずれにしても来年も農家を行う意思表示でもあるはずだ。ところが、農夫は今日から蔵人になるというのだ。たとえば兼業農家なのか、離農するのかわからないが離農であれば、いなしびがとても切なく、情念の火を上げるであろう。いずれにしても「いなしび」という季語を使って俳句を作ろうとした作者の感性に拍手しよう。
 
 月光の栞挟みし文庫本      栗山麻衣
 
最高点句である。私も点を入れた。「月光の栞 」という措辞の美しさにみな魅かれたのであろう。しかし、ここでふと立ち止まる。月光の栞ってなんだろうと。月光のような光を放つ美しい栞なのか、一筋の月光が漏れ来るか細い光を月光の栞とメタファーしたのか?まず迷う。その後に「挟む文庫本」であれば、かなり実景が結ばれる。やはり文庫本があるのである。栞も挟んでいる。もし一筋のか細い月光が射して、それが文庫本の栞のやうに見えたのであれば(これが一番美しい読みだと思うが)、そこに置きある文庫本自体があまりに小さくないであろうか。もし月光のか細い光が射しこんでそれがあたかも本に挟んだ栞のように見えるのであればもう少し本が大ぶりであってほしい。たとえば図鑑や、大辞林のようなサイズの本に月光が射した方がリアルではないだろうか。もしくは文庫本という措辞を「阿部一族」のようなかなり詩的選択力のある固有名詞が必要なのではなかろうか。とはいえ、はかない文庫本に一筋の月光が射し、それを月光の栞と隠喩を使ったとしても十分に成立する。私は要するにこの「月光の栞」という措辞にジェラシーを抱いているのかもしれない。百歩譲って月光の栞、文庫本の措辞が完璧であるだけに、やはり繋ぐ「挟みし」が凡手のような気もする。なぜなら、一筋のはかない月光が文庫本を照らしているとすれば、やはり「挟みし」の措辞はいいすぎの感があるのだ。一句でこれだけ考えさせてくれるわけであるから、佳句であることは間違いない。
 
 秋風を牛の重量移りけり  久保田哲子
 
秋風の吹く中、牛が放牧されている。一頭でもよい。風に押されたかのように、すこし体を動かした、あるいは体を傾けた。そのわずかな動きを重量移りけりで過不足なく表現している。牛の貫録しづかなり を思い出させる措辞だ。句会でも言われた「秋風の」や「秋風に」ではなく、「秋風を」とあえてしたこと。これが2つ目のこの句の隠し味であろう。秋風にであれば、秋風の吹く中で単に牛が動いたという状況説明になってしまう。そこを「秋風を」として秋風と牛の動きの間にワンクッション置いた格好になっている。つまり秋風をという措辞によって、秋風を感じたために牛が動いたとか、秋風を冷たく感じたために牛が動いたとか、秋風に謎が生まれた。吹き起こる秋風が鶴を歩ませた波郷の名句や、冷やされている牛の貫録を詠んだ不死男の名句などを下敷きにしたつくりになっている。
 
 秋の夜目薬さしてみる誤算   福本東希子
 
秋の夜 読書をして疲れたのであろうか、目薬をさす。なんとなく、所在なき行為ではある。そして最後に誤算と言い放つ。何が??と?マークが3つくらい並ぶ。これでもう読者は作者の罠にかかってしまう。おそらく、何の主張もない、哲学もない、季語の本意もない、しかし読者は詩的違和感をくすぐられる。感動がなくても、美しい素材がなくても、季語の共感性がなくても取らされる句である。誤算の措辞がやはり、意外で選択力がある言葉になっている。


以上です。失礼、誤読に対する苦情はどんどんお寄せください。こういう欄への投稿は何がつらいといって、何の反応もないのが一番つらいわけです。それではまた。


※みなさまのコメントをお待ちしております(^^by事務局(J)



 

1 件のコメント:

  1. 鈴木牛後さんのブログ『本日も深雪晴れ』にてとりあげられています。ご高覧ください。
    http://miyukibare.exblog.jp/18709444/

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