2012年12月8日土曜日

『やぶくすしハッシーが読む』 (その1)~第4回の俳句から~

『やぶくすしハッシーが読む』(その1)
 
 
~第4回の俳句から~
 
橋 本 喜 夫
 
 
句会では詠む、読むが同一人物のなかで行われて、自分も参加しているので同時性、ゲーム性もあってそれなりに発揚して他人の句を選ぶ。しかし今回のように句会に参加せず、俳句だけを「読む」場合はだいぶテンションが違う。要するにすこし俯瞰的、冷静に読むことができる。
イタックの句会は鮮度のある句とおもいきりがよい句が多い点、若さを感じる句が多いことが良い点。反面、完成度の低さ、重みのなさ、諧謔と面白みとの混同は弱点かと思う。私などは確かに「新は深」を重視する俳人で、金太郎飴のような句会だと、いくら完成度が高く、老練な句が揃っていてもあくびが出てしまう。
それでは順番どおりに読み進める。一度だけ目を通して印をつけた句のみコメントしたい。例のごとく紹介したい佳句もあるが、事情がありできないことを御寛恕を。また勝手に意見を述べたり、文句言ってるようですが、すべて愛情からくるものと理解していただければ幸いです。
 
 
酪農のゆきづまる地にそばの花
 
この句会にふさわしくないような社会性の句。TPP問題もゆきづまり、日本農業がゆきづまっているのは農協関連の病院に勤めている私にも理解できる。そこに咲くそばの花、荒地にも咲き、時期がくると白い花が咲き、それなりに美しい。ゆきづまったゆえにそばの花を咲かさねばならない地元のひとたちの心情も理解できる。中七の「に」はやはり説明的に感じる。ここは「や」で切ってほしいと思うのは私だけではないだろう。ちなみに「そばの花もひと盛り」はちょっと女性にしつれいな言葉だが、女性がいないところでは私は使っている。
 
 
地下街に青空が欲し菊花展
 
 
無理とは承知の措辞。ある意味アンビバレントな表現。地下街で催されている菊花展なのであろう。それぞれ美しく飾られている菊の花がそれぞれの青空を要求しているかのように作者は感じたのであろう。菊花展がなければ、むなしい措辞、空虚な措辞で終わるところを座五で盛り返した。座五で答えを出してしまったともいえるが。。。
 
 
歯ブラシの一つ残りし暮れの秋
 
秋は別れの季節なのだろうか。落ち葉、紅葉などからも別れがキーワードになるのかもしれぬ。それまで共同生活もしくは寝食を共にしたひとが、立ち去ったのであろうか、その人の使っていた歯ブラシがひとつ残されたという景。暮れの秋という季語の斡旋も、蕭々とした秋風、木々が落ち葉を急ぎ、それなりに別れの季節を思わせる。

 
ポアンカレ予想の謎や毛糸編む
 
長く数学幾何学の謎であったポアンカレ予想をわざわざ句にするとは・・毛糸編むという季語が微妙に合っている。ポアンカレ予想の3次元が最後まで謎として残ったわけだが。わかったようなわからないような話だが、ロケットに無限のロープをつけて発射して、宇宙を一周して戻ってきたとする。そのときロープの両端をひっぱって最終的に回収できたとするとかのロケットの回ってきた軌道は少なくても同一の球体上にあったことになるというのがポアンカレ予想である。毛糸編む針ををロケットと見立て、毛糸をロープと見立てると、その出来上がった完成品は同一球体上にあるような気がしませんか?いずれにしても恐ろしく、まどろっこしく、理に走った句である。ホトトギスなら叱られるような。
 
 
 
(その2に続く)

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