2012年8月1日水曜日
葉子が読む(その1)~第二回イベントの俳句から~
葉子が読む (その1) 「風」
7月。盛夏である。それがどうしたことか今年はいつまでも冷え冷えとした日が続いた。
会場は札幌市の中心部にある築50年という趣のあるビルだった。
空調はない。プロジェクター使用のため風が遮られるのではと幹事会は心配した。
冷夏と言えるような天候が続いたが7月である。
いきなり暑い夏がやってくるかもしれない等と心配しつつ
イベント前には「団扇や扇子などをお持ち下さい」とメールをしたほどであった。
それほど、私達にとっては「風」を意識したイベントであったのだ。
風とは気象学的には、大気の流れを意味するらしいが
様々なところで「風」は生まれている。そしてそれは「詩」となる。
今回も「風」を詠んだ句があり、あたしは迷いなく「風」を詠んだ句を
解いてみたいと思った。
そこで、葉子が読む(その1)は「風」についての作品について読むことにしよう。
風 その1
団扇からどこ吹く風の生まれけり 栗山麻衣
「どこ吹く風」どこかすっとぼけたこの言い回しはどことなく、粋な言葉だと思っていた。
しかしちょっと調べてみると本来、「関心がないとか知らん顔をして聞き流すとか」
あまり良い意味で使う言葉ではないらしい。
ところがこの句にはそういった色を感じさせない。
それはこの風の元が団扇だからではないだろうか?
扇風機やエアコンでは少々厭味っぽい。やはり団扇でなくてはならないのだろう。
団扇の風は自分で起こすものだ。自分自身が好きな時に好きなように起こせる風だ。
そんな、どこ吹く風。言ってみればそれは「良い加減に聞き流す風」であるのだろう。
なんでもかんでも真正面から浴びていたらそりゃぁ疲れるってものだ。
まさに、団扇が「生んだ」自己防衛のどこふく風って訳だ。
ところで、昭和の30年代、あっぱっぱでバタバタと煽ぐ団扇はまさに良い加減に聞き流す「どこ吹く風」を作者は知っているだろうか?団扇とは時々しか顔を出さないが登場する時はとにかく重宝するものだ。
それにしても団扇ってものはずい分と良い出来らしい。何年と、何十年といや何百年と姿は変わらない。
風 その2
風吹きて浮巣も我も流されむ 室谷安早子
浮巣。多くはカイツブリの浮巣を思うかもしれない。
北海道に暮らすあたしにはカイツブリと言われてもちょっとピンとこないものだ。
カイツブリ以外でも浮巣をつくる水鳥は多い。
さて、浮巣だ。浮巣はどんな風にも雨にも水の増減に応じて沈むことはない。
そこに、作者は浮巣も我も「流されむ」と言った。
自然に逆らわず、風にまかせしぶとく流され生きてゆこうという作者の決意の様に思えた。
決して肩肘を張るでもなく、たおやかに生きていこうと。
私はカイツブリの実物は知らないが、カイツブリは幼鳥を「おんぶ」をする。
その動画を見たことがある。その様子はどの動物にもある愛情あふるる情景であった。
我も子も流されむ。というところだろうか。
風 その3
夕立て音階の風散らばれり 後藤あるま
夕立の音は凄まじい。
さぁ、作者どの。音階の風とはなんぞや?
ジャズだろうな。いや、ストーンズだろうか。意外とソーラン節だったりして?
ああ完全に音階スパイラルに巻き込まれてしまう。
あたしはだいたいにおいて「音階」という言葉に過敏になってしいまうのだ。
個人的にはリストの超絶技巧練習曲あたりでけりをつけておこうか。
いや、音階だからと言って音楽を当て嵌めようなどナンセンスなことだ。
「音階の風」とはおそらく、今まで木々をゆらし音を奏でていた風が
夕立の激しい音でちりじりとなってしまった。ということだろうか?
この「散らばれり」で夕立の激しさを表現させたかったのだろうか。
だとしたら十分に伝わってきた。
作者が夕立が来た瞬間。作者にしか聞こえない音階の風が吹いていた。
そして、束の間その風は散り散りになってしまった。
う~ん・・・・その音階の風。感じてみたいものだ。
風 その4
いつもどこかに夏風邪の妻がいる 橋本喜夫
妻というものは、いつもどこかにいるもの。だろうか?
あたしを引き合いに出すのは少々常識外れな例なのだが、
それでも、夜になれば家の「どこか」にいる。
では、本当にいつもいるのか?と問えばそれはやっぱり何かが引っかかる。
いつもどこかに。いつもどこかに。いつもどこかに・・・・・
と何度か呟いているとすーっとそこに居るはずの人が
透き通って行くように感じる。
いつもどこかに居た妻はもういないのだろう。
妻の本。妻のめがね。妻のハンドクリーム。きっと妻の名残がいつもどこかにあるのであろう。
夏風邪とはいつまでもぐずぐずと鼻水がとまらず、身体がだるいものだ。
夏風邪をひいているのは作者自身なのではないだろうか?と思った。
ちょっと風違いである・・・・・。
風 その5
風死して君の匂いがあとづさる 山田美和子
風というものは、いつも必ずどこかで吹いている。
だって地球は回っているんだもん!というわけだ。
夏の盛。はたと無音になったかのように感じる風の死。
人も乗り物も止まってしまったかのような街。
この風の死の時人は何を考えるだろう?
暑いといいながらせっせと団扇や扇子で風を起こすだろうか。
冗談じゃないぜまったくとか言うだろうか。
計画停電?とかも思い出すだろうか。
そんな時、作者は「君」を思った。
匂いがあとづさるとはなんだろう?
なぜあとづさったのだろう?何が作者に起きたのだろうか?君は何を思ったのだろう。
きっとこの日二人は逢う約束をしていたのだろう。
なのに、風が死して二人に気持ちのズレが起きたのか・・・・などと二人の物語にずかずかと入り込んでしまう。
風が死ななければ二人にはこの先のドラマがあったのではないだろうか?
だから、作者は「風死して君の」と言った。
匂いは二人の関係の象徴であるように思える。
風の死んだ束の間の時間は本当に魔法がかかったような時間だと思う。
そして魔法が解けて涼やかな風が戻った時二人もまた近づいていることを
願ってしまう。
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