2012年6月23日土曜日

牛後が読む(その6)


~旗揚げイベントの俳句から~


鈴木牛後




わが夜具に花冷という同居人


「花冷」が同居人=伴侶の比喩として使われているのか、それとも、「同居人」が花冷の比喩なのだろうか。
前者として読めば、関係の冷えている同居人と同衾しているという景となる。ただ冷えているというより「花冷」の方が痛々しい感じがするのはなぜだろう。桜の明るさ、温かさの裏側としての「花冷」という側面が強く意識されるからか。若かったころの同居人との思い出。それが楽しかった記憶であればあるほど、今の状況が辛いのかもしれない。
後者だとすれば、布団の中にひとりもぐりこんだとき、ただ花冷の冷たさだけが傍らにある、ということ。これも、ひとりの冷たさが意識されるのは、ふたりですごした時間を追慕するからだろう。
通常の読み方では前者の読み方はかなり無理がありそうだ。しかし、後者のように読みながらも、ほのかに前者の読みがスパイスのように句中に潜ませてあるような気がしてならない。



山笑ひすぎて止まらぬ奇環砲(ガトリング)

奇環砲とは何かをまず調べてみた。 Wikipediaを読んでみると、アメリカの南北戦争や日本の戊辰戦争で使われた兵器とのこと。解説の中には「殺傷」などという言葉が平然と使われていて、何だか重苦しい気分になってしまった。
そんな奇環砲と季語「山笑う」との取り合わせには意表を突かれるものがある。「山笑う」の本意は、「早春の山の明るい色づきのさまをあらわす。(河出文庫「新歳時記」)」ということだが、掲句ではむしろやぶれかぶれの笑いのようなものを感じるのだ。
戦争の狂気。兵士の狂気。それは勝者、敗者にかかわりなく悲劇的だ。そんな悲劇を泰然たる山はどのように見ているのだろう。山から見れば人間などとるにたらないもの。噴火でもすればすべては吹っ飛んでしまう。悠久の歴史を歩んで来た山は、マグマとともに哄笑を吐き出すときを待っているのかもしれない。



春の日を乗せて笹舟覆る


日差しが日々強くなってゆく春。もちろん日差しに重さなどはないのだが、その強さには一種のエネルギーを感じずにはいられない。北海道においてはなおさら。まるで極限まで縮められたバネのように春は弾けるのだ。
掲句は子どものころの記憶だろうか。春の日差しの力。その力に負けてひっくり返ってしまった笹舟だが、春の日はくるんと底面に回り、また笹舟に降り注ぐ。底面が表面になり、また表面が底面に。そのたびに春の日差しは新しく生まれ変わり、どこまでも笹舟を追いかけていた子ども時代の作者も、いつも新しくその瞬間を生きていたに違いない。

今回で【itak】第一回句会『牛後が読む』の連載を終わらせていただきます。お読み下さったみなさま、ありがとうございました。次回のイベントもまた気ままに鑑賞させていただきます。

(終わり)

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