2012年6月2日土曜日


牛後が読む(その1)

~旗揚げイベントの俳句から~

鈴木牛後
 

今回の旗揚げイベントに、幹事の中でただ一人参加できなかったので、選を書かなければならない羽目になってしまいました。並み居る諸先輩方が参加されている句会の選を、このような公開の場に披露するのはもとより荷が重いのですが、「やりすぎくらいがちょうどいい」というのが【itak】のモットーということで、書かせて頂くことにしました。ご意見、ご批判をお待ちしています。なお選は、アンケートにおいて、ネットでの公開に同意いただいた句のみを対象としています。




【天】 

ブラキストン線の北にて青葉爆ず

私は北海道で生まれ育って50年、道外に出たことはたぶん10回もないと思う。それも、正月に妻の実家のある大阪に帰省したことが大半で、花も咲いていない木枯の中を歩いてきただけだ。

俳句をするようになって悔しいと思うことがときどきある。それは、季語のかなりの部分が実感としてわからないこと。「炎暑」とか「梅雨」などの時候や天文の季語にももちろんそれはあるのだが、一番大きいのはやはり植物の季語だろう。当地には椿も梅も木犀もない。竹もないし、檜や欅もない。これらを詠んだ名句は山のようにあるのに、どうにも理解しようがない。

厳密には、ブラキストン線によって分けられるのは動物が主で、植物はそれほどないようだが(実際、梅は札幌にはある)、私にはこの「ブラキストン線」という言葉の語感自体が、北海道民としての矜持と疎外感の象徴という感覚がある。 そう、矜持と疎外感は表裏一体なのだ。その屈折した感情。東京で桜が咲いているのに、まだ雪掻きをしているという現実を思うとき、身体の奥深く積み重なってゆくものを自覚せざるを得ない。
そして春。北海道民にカタルシスが訪れる。花が次々に開き、瞬く間に新緑の世界に変わってゆく。この時間感覚は人によってさまざまだろうが、作者はこれを「青葉爆ず」と表現した。これは作者ならではの身体的な把握だろう。冬の間極限まで縮められたバネが、一気に弾けるという皮膚感覚。北海道に住む者でなければ詠めない句として、この句に大いに感銘した。


【地】

ひたすらの帰雁の胸の硬からむ


冬は日本で過ごし、春になるとシベリアに帰ってゆく雁。蕪村が「きのふ去にけふいに雁のなき夜かな」と詠んだように、人間からみた寂しさとして詠まれることが多い。

掲句は、寂しさと同時に帰雁の強さを詠んだ句として新鮮に感じた。雁などの渡り鳥が正確に渡りをすることのできるメカニズムについてはよく知らないが、人間からみるとかなり神秘的な営為であることは間違いない。脇目もふらず一直線に目的地を目指す雁。その編隊の整然さとも相俟って、硬質とも言える美がそこにはある。

作者はその帰雁の胸に注目した。強靱な羽を動かす筋肉を包む胸。その硬さこそが、長い渡りの旅路を可能にしているのだ。一方で作者は、自分の胸のやわらかさに目を向けているのかもしれない。物理的なやわらかさではなく、むしろ精神的なものとして。それは、自分には、もはやなくなってしまったひたむきさかもしれないし、追い続けられなくなった夢であるのかもしれない。次々に飛び立ってゆく雁の群れを思い描きながら、作者のやわらかな胸に去来するものを想像せずにはいられない。


(つづく)

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