牛後が読む(その5)
~旗揚げイベントの俳句から~
鈴木牛後
夜桜をユーリファリンクス泳ぎゆく
梶井基次郎の「桜の樹の下には」を思い出した。桜の樹の下に屍体が埋まっているなら、夜桜の下をユーリファリンクスが泳いでも不思議なことではない。不思議なことではない、という言い方はちょっと変かもしれない。何しろ不思議なことなのだから。
私はユーリファリンクスを知らなかったので、ネットで調べてみた。日本語でフクロウナギという深海魚で、ユーモラスともグロテスクともいえる形をしている。一目みてぎょっとしたというのが正直なところだ。この世のものとは思えぬ体つき。冥界から来たと言われればそうかと思う。
私は花篝を見たことはないが、あの大きな炎は上方の花は明るく照らしても、足もとはよく見えないのではないか。ゆらゆらと絶えずゆらぐ炎の陰にたゆたう闇。鮮烈な夜桜とその対極としての暗がり。
夜桜の宴は人々のエネルギーに満ちている。だがそのエネルギーはどこにも行かず、何かを産み出したいという欲望を抱いて、宴の内部に留まっているようだ。女性の体内の熟し切った卵子のように。そこに、暗い足もとを精子のように泳いでくるユーリファリンクス。やがて両者は…。
「桜の樹の下には」の幻影に引きずられて、あらぬ方向に読みが行ってしまったが、それもまた、この句の持つ妖しい魅力の所産だと思う。
ひとひらは山へと還る夏桜
北海道では「夏桜」という季語は微妙だ。夏桜は、立夏を過ぎて咲く桜のことだが、道北に位置する当地では立夏の前に桜が咲くことは非常に稀だからだ。角川俳句大歳時記には、「北海道のような北国では立夏を過ぎて咲きはじめる桜もある」とわざわざ書いてあるが、道北、道東の桜はすべて夏桜なのか。このあたりは、「内地」の感覚の押しつけのような気がどうしてもしてしまう。
季語の公式な季感に厳密に従うなら、この句を詠んだのは函館あたりの方ではないかという気がする。道南では立夏の頃にはもう桜は散っており、それから咲く花は「夏桜」という季語に相応しいからだ。
おおかた散ってしまった函館や松前の桜の名所でも、遅れて咲くものもあるのだろう。そんな夏桜もやがて散りどきを迎える。落花のときも、たくさんの桜が散るのとは違って、誰にも惜しまれもせずひっそりと散るはずだ。花びらは風に流れて風下の広い範囲に散ってゆく。そんな花びらのひとつが、遠く離れた山まで届いているだろうというのだ。
花の散りゆく方向に遠く置かれている薄青の山。実際には、そこに花が降りかかるように見えるという景なのだろうが、「山へと還る」という表現でほのかな郷愁を織り込み、叙情的な美しさを作り出している。
(つづく)
0 件のコメント:
コメントを投稿